「米国で最も有名な日本人」
盛田昭夫の傑出した社交術

 盛田は米国流の社交術にならい、週1回は自宅に客を迎えてのディナーやカクテルパーティを催した。妻・良子の努力もあり、5番街“盛田家”のパーティはニューヨーク社交界でも有名になり、客層も上流へと広がった。華やかなファッション関係者たちに交じり、音楽家たちもやってきた。その中にはレナード・バーンスタインもいた。常連客となっていたデビッド・ロックフェラーの夫人マーガレットから良子は、ニューヨーク近代美術館(MOMA)の評議員に推薦された。

 渡米した当初の目的通り、盛田は米国経済界では最も名の知られた日本人になっていった。当時の航空会社大手「パン・アメリカン航空」、「IBM」、「モーガン・ギャランティ・トラスト」(現、J・P・モルガン・チェース)、それぞれのトップとともに「国際諮問委員会」のメンバーに選ばれる。盛田はすでに国際的な経済人としての地位を固めつつあった。

 こんなエピソードが残されている。語ったのは投資会社「ブラックストーン」を創設したメンバーの1人、ピーター・ピーターソン。彼は一度、盛田を連れ、米国エスタブリッシュメントの牙城とも言うべき「オーガスタ・ナショナル」を訪れた。ピーターソンには、密かに盛田に真のエスタブリッシュメントを見せつけてやろうという魂胆があったようだ。しかし、驚かされたのはピーターソンの方だった。なぜか?「オーガスタ・ナショナル」にいた誰もが盛田を知っていたからだ。

「あの男(盛田のこと)は、1日に10回、飯を食っているに違いない」

 ピーターソンにすれば、皮肉の一つも言わなければ気がすまなかったのだろう。けれども、この皮肉でさえも真実に思えるほど、盛田の社交術は傑出していた。

 1970年代後半から1980年代初頭は、日米間の貿易摩擦がクローズアップされ始めた時代だった。政界はもちろんだが、重層的に学界や経済界などあらゆるレイヤーで日米間の対話が行われた時代でもあった。