日本でコカ・コーラを広めたのは
キッコーマンの創業一族

 そんな日本のコカ・コーラの礎を築いたのが、しょうゆで有名なキッコーマン創業家系の高梨仁三郎です。

 終戦後、日本に駐留していたアメリカ兵たちがコカ・コーラを飲んでいるのを見た高梨は「これはビジネスになる」と直感し、コカ・コーラのアジア統括だったスペンサーにアプローチを始めます。

 ただ、当時は朝鮮戦争の真っ最中でした。コカ・コーラには「アメリカ軍への供給が優先のため、日本市場への展開はまだ早い」と断られてしまいます。

 しかも、当時のアメリカと日本の商慣習は大きく異なり、「安売りをしない」「現金取引のみ」のアメリカと、「安売り」「掛け売り」を求める日本との違いも障壁になりました。

 高梨は粘り強い交渉によってついに1952年、日本国内でのコカ・コーラの販売権の獲得に成功しますが、商売はなかなか軌道に乗りませんでした。

 まず戦後の日本には、原液の輸入に必要な外貨が不足していました。さらに、国内の飲料業界から「外資に市場を奪われる」と猛反発を受けました。

 そうした中でも「ファンタ」のヒットなどで赤字の危機を乗り越え、池田勇人首相が提唱した「所得倍増計画」の追い風も受けて、自由化の流れに乗っていきます。

 戦後日本のコカ・コーラの普及は、当時の日本人が抱いていた「アメリカへの強い憧れ」と、コカ・コーラ社の「驚異的なビジネス戦略」が合致した結果であったといえます。

 終戦直後の日本にとって、コカ・コーラは「豊かで輝かしいアメリカ」そのものでした。

 米軍(GHQ)が持ち込んだコカ・コーラは、飢えや貧しさに苦しむ日本人の目に「魔法の飲み物」として映りました。

 当時は米軍専用で一般販売されておらず、闇市に流出したコーラは非常に高価で、それを飲むことは一種のステータスや「新しい時代」を感じる行為でした。

 1957年に一般販売が本格化すると、日本コカ・コーラは日本社会に深く入り込むための独自の仕組みを作りました。