◆私(信長)が織田家を率いて30年、お前はたったの一度も活躍していない。
◆戦では援軍の平手汎秀(ひらて・ひろひで)を見殺しにし、あげくおめおめと逃げ帰ってきた。
数々の合戦で貢献したのに、一度も活躍していないとは、完全に濡れ衣(ぬれぎぬ)です。ただ「平手汎秀の見殺し」については、信盛にも非があります。武田信玄と徳川家康が激突した、1572(元亀3)年12月の三方ヶ原の戦いのこと。家康と同盟関係にあった信長は援軍を送るのですが、その中に信盛も含まれていました。
しかし信玄の大軍を目の当たりにした信盛は、あろうことか戦わずして退却してしまったのです。とはいえ勝ち目のないほど兵力差もあり、しかも8年も前の話なのですが……。
このことだけは心底、赦(ゆる)せなかったのでしょう。怒りのボルテージはマックスに。折檻(せっかん)状の最後を、信長はこう締めくくります。
◆もはや討ち死にする以外にないだろう。
◆親子そろって坊主となり、高野山にでも隠遁(いんとん)せよ。日々許しを請うて生きよ。
◆私はお前を絶対に赦(ゆる)さない。
ここまで徹底的に非難された信盛は、特に弁解もせず織田家を去り、高野山へ。約1年半後の1582(天正10)年1月16日、55歳で生涯を閉じます。
なぜ信盛はターゲットになった?
信長の心理を分析すれば見えてくる
織田家の宿老、現代の会社でいうなら部長か取締役の役職にあった信盛。折檻(せっかん)状は、ワンマン上司の社長・信長による、突然のパワーハラスメントといえるでしょう。コンプライアンスもへったくれもない戦国時代でも、ここまでのものはなかなかありません。
この信長の理不尽過ぎる攻撃、なんとかかわす方法はなかったのでしょうか。信盛は、どうすればよかったのか。
怒りに燃えてカッカする相手には、まずは言い訳せず謝罪するのがベストです。非があるならなおさら。三方ヶ原の件、実際には戦力差も大きく「戦っても犠牲が増えるだけ」だったのかもしれませんが、無断で撤退したのは事実。そこは端的に謝罪すべきでした。
折檻(せっかん)状の冒頭にある石山本願寺については、実は折檻(せっかん)状が出される十数日前に焼け落ち、信長も実況見分で足を運んでいます。にもかかわらず、なぜ信盛はあそこまで批判されてしまったのか。







