それはきっと信長が、「これで信盛の利用価値はなくなった」と判断したからでしょう。強敵・石山本願寺がいなくなり畿内平定。となると、畿内方面軍を率いていた信盛はお役御免です。
本願寺顕如 画像:『顕如画像』(江戸時代初期、個人蔵)/Wikimedia Commons(Public Domain)
目下の問題が未解決の段階では我慢し、決着がついてからクビを切る。信長の人事は実にしたたかです。当時の主従関係は今とは段違いに、家臣に対して自らの権威の絶対性を示す必要がありました。そのためのみせしめとして、信盛がターゲットになってしまったのでしょう。
怒れる上司への対処法は
同僚・秀吉に学ぶべきだった
それにしても、直近の石山本願寺の件はともかく、10年近く前の話まで持ち出されるとは……。信盛も「なぜ今更!?」と頭を抱えたはずです。でも、メンツを潰された者はなかなかそれを忘れないのです。権威で家臣団を統率する必要がある戦国武将であれば、なおさらです。
朝倉攻めの時、言い訳せず謝っていれば。三方ヶ原の時も、自ら申し出て謹慎でもしていれば。信長が多くの敵に囲まれていた時期なら、しぶしぶでも赦(ゆる)されていたはずです。信盛はその時期、信長にとって必須の家臣だったはずなのですから。
実はこの折檻(せっかん)状より3年前に、似たような行動をとったのに信長の赦(ゆる)しを得た者がいました。羽柴秀吉です。
信長軍が上杉謙信と戦った、1577(天正5)年の手取川の戦いにおいて、柴田勝家とともに前線にいた秀吉。勝ち目なしとみた秀吉は、軍令違反を承知の上で無断撤退しています。結果、信長軍は大敗。秀吉は帰還直後に信長の逆鱗(げきりん)に触れてしまい、居城の長浜城で謹慎することに。
手取川。左(南)から右(北)へ渡河した織田軍は、川を背に戦うことになり大敗を喫した
が、ほどなく謀反を起こした松永久秀攻めで秀吉は戦線復帰しています。さらに中国方面軍の大将を任されることに。この時期、最大のライバルだったともいえる毛利家との最前線に、彼の力がどうしても必要だったのです。
『武功夜話』では、秀吉はこのとき、いち早く信長の前で平伏し陳謝したとしています。心の中ではどう思っていたかは不明ですが、「敵の多い今なら、信長様もきっと赦(ゆる)すしかないはず」という計算もあったはずです。「機を見るに敏」な秀吉らしいエピソードです。
この秀吉の一連の経緯から信盛が教訓を得て、過去の失敗を謝罪していたら。石山本願寺との敵対関係が続いている5年間の最中であれば、「事後謝罪でもまだ間に合った」のです。
折檻(せっかん)状のその他の部分は、罵詈(ばり)雑言の類いです。これらについては、無視する以外にありません。理屈ではなく感情的な表現に対しては、反論しても意味がないからです。ましてや、相手との間に絶対的な上下関係があるならば尚更です。
もし気持ちが収まらないなら、直接の相手の耳に届かない場所で吐き出すこと。仮に戦国時代にSNSがあったなら、裏アカでつぶやいておけばよかったのです。信長の前では平伏し謝罪した上で。







