その言葉は、I教頭の胸に残った。
「来なくてもいい」なんて
学校は言えない
その週の終わり、今度は生徒指導主事がやってきた。今までの相談よりも、さらに答えにくい話だった。
「2年生の不登校傾向の生徒の件なんですが」
「うん」
「保護者が、“出席義務をなくしてほしい”と」
I教頭は眉を上げた。
「なくす、とは」
「本人は朝がつらい。教室の空気も重い。無理に登校を求められること自体が負担なので、“出席しなければならない”という前提を学校側で外してほしい、と。本人が来られる日だけ来る形にしたいそうです」
「現状はどうなっている」
「欠席が増えています。保健室登校の日もあるし、昼から来る日もあります。ただ、お母さんとしては、学校から“来られないか”“何時なら来られるか”と連絡が来ること自体がプレッシャーみたいで」
それは分からなくもなかった。
学校が善意でかける電話が、家庭には催促や圧力に聞こえることがある。行けないことを、毎朝あらためて確認される苦しさ、それは現実にある。
だが、「出席義務をなくす」という言葉は重い。
学校がそれを言葉として認めた瞬間、義務教育の枠組みそのものが変わってしまう。
「要するに」と生徒指導主事は言った。
「家庭としては、“行けたら行きます、でも行けないことを責めないでください”なんだと思います」
「それなら分かる」
「でも、保護者の言葉はもっと強いんです。“出席を義務みたいに扱わないでください”って」
I教頭は、ここでもまた、言葉の問題だと思った。
保護者が欲しいのは、制度変更ではないのかもしれない。
責められないこと。追い詰められないこと。学校に見放されないこと。
『カスハラ化する保護者たち』(西岡壱誠 星海社、星海社新書)
だがそれが、制度の言葉を借りて表現されると、学校側は受け止め方に苦しむ。
「義務をなくす」わけにはいかない。
しかし、「来られない現実に寄り添う」ことは必要だ。
「言い換えよう」とI教頭は言った。
「“出席義務をなくす”ではなく、“登校できない日があっても、責めるための連絡にはしない。来られる形を一緒に考える”に置き換えるんだ。学校の原則は守る。でも、追い詰める運用にはしない。その線で話すしかない」
生徒指導主事は「なるほど」と言ってメモを取った。
けれど、その顔には、また別の疲れが見えた。







