黒柳が出演していたNHKのバラエティ番組『夢であいましょう』の台本を担当していた永は、1969年に次のように書いている。「彼女の持ち味のひとつ」は「年齢不詳」だが、それが「戦後体験の共感の無さ」につながっているようにみえる。「彼女は生活感をきらうが、学童疎開出身というような背景は、常にどこかに生かしておいてほしいと思う」と。

 永が言う「戦後体験」とは、敗戦後でなければ生じなかった様ざまな体験――生活苦や復興体験、あるいは民主化や占領体験、自由な言論や社会運動の体験――などを指していると思われる。

 ユニセフの親善大使としての活動や、日本ろう者劇団の結成、そして折に触れて語る戦争体験など、後年の黒柳を知る者としては、永六輔による「戦後体験の共感の無さ」という評価は、やや意外でさえある。ただし、1960年代の黒柳は、20代後半から30代とまだ若かった。

 戦時中の体験が多くの人びとに共有されている社会では、疎開体験がその後の自分をいかに形成したか、というようなことはあえて語るまでもないと考えていたのかもしれない。そもそも、そうした体験を語る場所自体が、彼女にはほとんどなかったはずである。

 それでも、永六輔の評価には頷ける部分もある。生活感のなさは、たんに俳優としての優れた資質を意味するだけでなく、戦後民主主義のなかの平和主義の理想を盛る器としては最適だったとも言えるからだ。たとえば吉永小百合、あるいは現代であれば綾瀬はるかがそれに相当するのかもしれないが、生活感の希薄な女性芸能人が、平和という政治的主題を伝える「メディア」として選ばれやすいということはあるだろう。

 永の言葉にもう少しこだわるならば、1960年代までは、生活感と「戦後体験」が人びとのなかで当然のように結びついており、乖離していなかったということなのかもしれない。だからこそ、「生活感をきらう」黒柳の姿が、永の記憶に残ったのだろう。

 いずれにせよ、黒柳における「戦後体験」の具体的な展開は、彼女が自らを語る場所を持った70年代に本格化することになるのだった。