実際、そのために彼が同行していた。凍るように冷たい水の中で泳ぐと、脳の働きが鈍くなる。「頭がはっきり働かないし、返事もおかしくなる」とノークスは後に語った。

「深部体温が一定温度まで下がると、元の体温に戻れなくなる。そうなると、一瞬泳いで次の瞬間には海の底に沈みはじめるだろう。私は彼の体温が絶対にそこまで下がらないようにしなくてはならなかった」。

 つまり、ピューの無事はノークスの判断にかかっていた。

「引き返せるものならそうしていただろう」と、のちにピューは認めた。「真っ直ぐティム(訳注:ノークスのこと)の目を見たら、恐怖を感じているのが分かった。そんな様子の彼を見たのは初めてだった。私に体温計を装着しているときに、彼の両手が震えていた」。

 ピューの挑戦は無謀で命を危険にさらすものだと世界中の科学者たちが口を揃えるなか、ノークスはこの挑戦が実現可能だという立場を取る数少ないスポーツ科学者の1人だった。だがいよいよその時が目前に迫ると、ノークスは怖くて怯えていた。もしかしたら他の科学者たちのほうが正しかったのかもしれない。

水温が高い湖での
直前練習では二度も失敗

 北極の海で1キロメートル泳ぐという挑戦に先立ち、3週間前にノルウェーの氷河湖で訓練が行われた。水温は摂氏3度で、北極圏の海水に比べるとかなり高かった。だが、ピューが泳げた距離は最長でも600メートルにすぎなかった。

 歴史的偉業となった北極での単独泳を2日後に控えて、ピューとそのチームの人々(29人のメンバーがいた)は、本番の想定訓練をもう一度行うことを決めた。その結果はさらにひどかった。

 彼は全体距離の3分の1も泳がないうちに痛みに襲われて、棄権を余儀なくされたのだ。後で分かったが、両手が凍傷にかかって細胞が破裂していた。「その状態がどんな感じなのかは到底言い表せない」とピューは言った。「何時間もずっと、誰かに自分の手を踏まれ続けているようだった」。

 想定訓練が2回とも失敗に終わり、この挑戦はうまくいくだろうかとピューは深刻な疑いを抱いた。彼が成し遂げるのをチーム全員が期待している上に、世界中の報道会社からは最新ニュースを毎日求められ、彼にかかるプレッシャーは増大しつつあった。