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元週刊ダイヤモンド編集長が高校生向けに実施している授業「大学への経済学入門」を基にした連載『経済学タイムトラベル 歴史を動かした経済思想家たちの軌跡』。第10回は前回に続いて新井白石の後編で、貿易政策を紹介します。イギリス、オランダ、フランス、ポルトガルといった重商主義国が東インド(東アジア)へ進出し、交易を競っていた16世紀、そして東インド会社が登場した17世紀、徳川幕藩体制の鎖国下、日本は清とオランダ2カ国との貿易を認めていましたが、長崎の扉から出ていった金銀銅は膨大なものでした。一方、幕府の財政は年々逼迫し、5代将軍綱吉政権下で財政危機に陥っていました。貨幣改鋳で金銀の含有率を半減して出目(差額益)を歳入に入れた勘定奉行荻原重秀の政策を否定した白石は、一方で海外へ流出した金銀の総量を推計し、初めて経常収支の赤字額を算定、これを抑制する政策を導入します。白石は財政収支と経常収支、“双子の赤字”に着目した初めての“エコノミスト”といえるでしょう。
黄金の国ジパングから
膨大な量の金銀が海外へ流出
12世紀のはじめ、平安時代の末期、奥州藤原氏は平泉(岩手県)に当主代々の遺体を納める黄金の仏堂を建立しています。有名な中尊寺金色堂です。その二百数十年後の13世紀末、マルコ・ポーロが『東方見聞録』に「黄金の国ジパング」の存在を書いたことは、このゼミナールの初回に話しましたね。特に東北地方には金山銀山が非常に多かったのです。
生徒F:ジパングには黄金の王宮があり、床も厚さ数センチの金でできている、とまで書いていましたよね。
日本は金銀銅の世界的な産出地だったのです。16世紀の大航海時代、中国やポルトガル船が多数来航していましたが、中国船の大きな目的は日本銀を積み出して輸出すること、ポルトガル船も日本銀と中国の生糸や絹織物などを仲介することでした。後年のイギリス船やオランダ船も同じです。中国には日本銀が大量に入っていました。金は世界的にそれほど増産されていませんが、銀の増産はものすごく急激だったんです。
生徒B:日本は金銀銅が大量に採掘されていた、とはよく聞きますが、どれくらいの量だったのでしょうか。
ヨーロッパの研究を紹介した『日本鉱山史の研究』(★注1)には次のような数値が掲載されています。
このうち、日本の産出高はわかりません。ただ、17世紀の金については、日本は輸入国です。銀については、豊臣秀吉に納めた生野銀山の運上銀(年2万kg)や17世紀初頭の石見銀山が徳川家康に納めた運上銀(年1万2000kg)、佐渡の相川鉱山の銀産出高(年間6万~9万kg)といった数字から『日本鉱山史の研究』の著者、小葉田淳氏が推計したところによると、日本から輸出した銀は年20万kgだった年もあるそうです。世界の産出高が年40万kgとすると、その50%近い数字になるでしょう。ものすごいシェア(占有率)ですよね。世界の貿易に日本銀が大きな影響力を持っていたことになります。
膨大な銀が産出され、海外へ流出していたわけですが、地下資源には限界がありますから、日本の産出量もやがて減少し、いずれ枯渇しますよね。それに、輸出入の品目を見ると、ものすごく片寄っています。明暦元(1655)年(新井白石は1657年生まれ)の貿易品目を大石慎三郎氏が書き出しています(★注2)。
大石氏によれば、輸入の大半は絹・絹織物で、輸出用の物産はほとんどなく、金銀の支払い分が出ていくということになります。金銀の産出がどんどん増えていけば問題はないのですが、産出高の表の最後、寛永年間の終わり(1640年代)には日本の採掘は激減し、蓄積分の減少が続くことになりました。白石は、資産の貴金属が流出し、やがて消えてなくなる消費財の生糸・絹が入ってくるものの、輸出品はないので金銀が流出する一方だと指摘します。
【次ページ以降の3つのポイント】
(1)新井白石は重金主義者・重商主義者ではない理由
(2)白石の貿易数量規制の枠組みは幕末まで継続した
(3)世界人文地理情報から歴史区分法まで多彩な業績









