「そういう時代だから」「この業界はそういうものだ」。変えられないものの話にしてしまえば、そこで話は終わる。だが、それは本当に時代が決めたことなのか。ピーター・F・ドラッカーは32歳のとき、著書『産業人の未来』において、人の集団や歴史を持ち出して物事を説明する考え方を、真正面から否定した。変えられないものと、変えられるものの境界線はどこにあるのか。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

「時代のせい」という便利な言葉
「そういう時代だから」。会議の終盤に誰かがそう言うと、その場の空気がすっと軽くなる。
「この業界はそういうものだ」「うちは、そういう会社だから」。時代のせいにし、業界のせいにし、最後は自社の風土のせいにする。原因が突き止められたわけではないのに、話はそこで終わり、次の議題へ移っていく。
組織文化、社風、企業風土。呼び名はさまざまだが、いずれも便利な言葉である。誰か一人を責めずに済み、しかも当面は変えようがないものとして扱えるからだ。
この感覚を、80年以上前に真正面から否定した本がある。ドラッカーが刊行した『産業人の未来』である。
そこで論じられているのは企業の風土ではない。「あの国の人々はそういう性質だから」という国民性の話である。
気質が決めるもの、決めないもの
本書はまず、国民性や民族性の存在を認める。そのうえで、それが何に関わる特性かを限定する。
ドラッカーはこう述べる。
国民性あるいは民族性なるものが存在することは確かである。しかし、それは主として物事の進め方に関わる特性である。すなわち、緩慢にか急激にか、慎重にか性急にか、感情によってか理性によってか、丁寧に行うかさっと行うかである。
――『産業人の未来』より
本書はさらに、その気質は意思決定の内容には関係がないと明言する。どちらが誤るかは、気質からはわからない。
つまり気質は決め方を左右するだけであって、何を決めるかまでは決めていない。これは書き手の解釈ではなく、本書の命題そのものである。
国民性を業界や社風に置き換えても、論理は変わらない。慎重な会社にも、素早い会社にも、善い決定と悪い決定の両方ができる。
境界線はここにある。時代が左右するのは、決め方の速さや傾向だけだ。だが、何を決めたかまでは左右しない。
ドラッカーはユダヤ系オーストリア出身であり、ナチスの台頭を前にドイツを離れている。刊行は1942年だが、中核部分を書いていたのは1940年の夏であり、連日の報道に眠れない夜も多かったと自ら記している。
相手を憎む理由を最も多く持ちえた人物が、国民性という説明を最も強く拒んだのである。
好調なら強み、不調なら体質
本書には、もう一つ鋭い指摘がある。歴史による説明の恣意性だ。
もしその国が正反対の道を進んでいたなら、歴史上の思想家の名を並べて、そうなるのが必然だったと説く文献が無数に現れていたに違いない。本書はそう書く。
同じ「慎重さ」が、伸びているときは品質へのこだわりと呼ばれ、悪化した途端に意思決定の遅さと呼ばれる。同じ「風通しのよさ」が、好調期にはフラットな組織と讃えられ、問題が出れば規律の欠如と書かれる。
変わったのは性質ではなく、結果のほうだ。文化による説明は、結果を知ったあとから逆算して作られる。
調査報告書が風土や体質への言及で結ばれるとき、語られているのは進め方の傾向であって、誰が何を決めたのかとは別の話である。
決めたのは、誰なのか
本書の論理を当てはめれば、文化は決定の速さを説明するが、決定の中身についての弁明にはならない。
「風土のせいだ」と言うとき、私たちは原因を特定したつもりでいる。だが実際に起きているのは、責任の所在を動かすことではないだろうか。
本書には、次のように書かれている。
あるいは、あらゆることが国民性や歴史によってではなく、まさに自らの意思によって決定されるということである。
――『産業人の未来』より
決めたのは風土ではなく、そのときの誰かである。ならば、いま決め直すこともできる。
本書の副題は「改革の原理としての保守主義」。保守が改革の原理になるという、一見矛盾した言葉である。
その矛盾を解く鍵は、社会が機能する条件にある。一人ひとりが位置と役割をもち、権力に正統性がなければならない。
文化のせいにしたくなるとき、その裏側にあるのは、おそらく位置と役割の問題なのだろう。
ドラッカー本人はこれを、社会に関わる基本的な理論の発展を目指した唯一の著作としている。
本稿で触れられたのは、本書の議論の入口にすぎない。社会が機能する条件をめぐる全体像は、本書に体系的にまとめられている。






