しかし雨が降ったり、虫歯になったりしているうち、1カ月が過ぎる。やっとカンガルーを見られる日、動物園に向かいながら、彼女は「カンガルーの赤ちゃん」を見られるタイムリミットを気にする。
カンガルーの赤ん坊は生きていた。が、もう赤ん坊といえる時期は過ぎ、小型のカンガルーになっていた。彼女は苛立つ。僕は何も言えない。そのままふたりは2匹の雌、雄、子どもカンガルーがいる柵の中を眺める。
カンガルーの夫婦は
僕と彼女のメタファー
文学研究者の中野和典は、「母親カンガルー」と「(母になる可能性のある)彼女」が重ねられていることを指摘する(注1)。
これを踏まえると、「僕」と「父親カンガルー」もまた重ねられている。というのも僕と、彼女が見た父親カンガルーは、どちらも物静かだ。一方で僕も基本的に受動的で自ら言葉を発しない男性である。自分から彼女に語りかけることは少なく、この小説の会話のほとんどが、彼女から始まっている。
面白いのが、父親カンガルーについて「彼は才能が枯れ尽きてしまった作曲家のような顔つきで餌箱の中の緑の葉をじっと眺めている」「失われた音符を捜し求めていた」と、自ら主体的に想いを表現することができない様子が描写されるところだ。
そして、僕もやっぱり「僕はあきらめて新聞を眺める。これまで女の子と議論して勝ったことなんて一度もない」と何度も口をつぐんできたとわかる描写がある。僕は議論で困ったら黙る男なのである。
自分の想いを表現することができない――「カンガルー日和」で綴られるのは、僕と彼女のちょっとした会話の噛み合わなさ、である。夫婦のディスコミュニケーション、という主題が見える。
カンガルーの赤ん坊を見ることに
なぜ彼女はこだわっているのか?
しかし作中たった2ヵ所だけ、僕のほうから話しかける場面(!)がある。ひとつが、2匹いる雌カンガルーを見たときだ。
「うん」
「とすると、母親じゃない方のカンガルーはいったいなんだ?」
わからない、と彼女は言った。》(「カンガルー日和」)
(注1)中野和典「逆説の母子像─村上春樹「カンガルー日和」論─」『福岡大学日本語日本文学』21号、2012年







