母親ではないカンガルーを見て「いったいなんだ?」と問う。どういう意味の発言なのだろう。

 さらにもう一度、僕のほうから話しかけるタイミング。それは、彼女との沈黙を打ち消す誘いだった。

《「ねえ、あの袋の中に入るって素敵だと思わない?」
「そうだね」
「ドラえもんのポケットって胎内回帰願望なのかしら?」
「どうかな」「きっとそうよ」
日はすっかり高くなっていた。近くのプールからは子供たちの歓声が聞こえてくる。空にはくっきりとした夏の雲が浮かんでいた。
「何か食べる?」と僕は彼女に訊ねた。》(「カンガルー日和」)

 プールから聞こえる声は、どこか子ども時代への憧憬のように感じられる。夏の、子どもたちが遊んでいる風景。それを僕は振り切るように、沈黙を打ち消して、何か食べるかと話しかける。つまりあえて深読みして比喩的に考えると、僕は少年時代への憧憬を打ち消すように、「何か食べる?」という言葉を発しているのかもしれない。

 彼女をカンガルーの檻の前で待たせて僕がチョコレート・アイスクリームを買って戻ってくる前後で、彼女はなぜか「もっと早く来るべきだったのよ」「もう赤ん坊じゃないのよ」と苛立っている。なぜ苛立っているのだろう。読者にはよくわからない。

 だが、彼女はたしかにカンガルーの赤ちゃんを見られるタイミングに「間に合わない」というタイムリミットを気にしている。

大人になろうとする彼女と
子ども気分が抜けない僕

 ここで1つの先行研究を参照したい。それは、僕が持ってきたチョコレート・アイスクリームに子どもでいようとする嗜好を、彼女が最後に望むビールに大人になろうとする嗜好を見出すという読みである(注2)。

(注2)増田正子は、「チョコレート・アイスクリーム・ホットドッグ・コーラ=〈子ども〉的嗜好品」「ビール=〈大人〉の嗜好品」と捉えている。(増田正子「「カンガルー日和」(村上春樹)試論─カンガルーと「僕」と「彼女」の隠喩的形象について─」『文学・芸術・文化:近畿大学文芸学部論集』25巻2号、2014年)