「家の中では食事をしない」発言はどうしたんだと読者が思うところだが、既に彼女は僕の前から消えている。不可解な失踪だ。

 一方で、僕の別れた妻も同様である。妻は「台所のテーブルにうつぶせになって」いたあとに僕の前を去る。

母になろうとする女性は
僕の前から消えていく

 必ず女性が消えてしまう、『羊をめぐる冒険』の台所とは、いったい何なのだろう?

 このような問いをもって『羊をめぐる冒険』を読むと、耳の女の子が台所に立つより前、僕は耳の女の子に「君と君の耳だけで本当に十分なんだ」と語りかけている。

《「何もいらないんだ」と僕は言った。「君と君の耳だけで本当に十分なんだ。それ以上は何もいらない」
彼女はつまらなそうに首を振って僕の肩に顔を伏せた。》(『羊をめぐる冒険 上』)

 それ以上は何もいらない――これは何を言っているのだろう。「子どもはいらない」「母親になんてならなくていい」ということの比喩ではないか。

 考えてみると、台所とは、料理をする場所だ。『羊をめぐる冒険』を出版したタイミングでは、まだ母親の立つ場所だっただろう。すると女性が台所に行くというのは、女性が母親になりたがるということを比喩的に表現しているのではないか。つまり『羊をめぐる冒険』における「台所」は「母」の比喩であると見ることができるのではないだろうか。

『「夫婦」不在社会』書影「夫婦」不在社会』(三宅香帆、講談社)

 母になろうとした女性は、僕の前から消えてしまう……『羊をめぐる冒険』とはそういう物語なのだ。僕は、自分が親になりたくないし、彼女にも母になってほしくないのである。

『羊をめぐる冒険』において、「僕」は父になろうとしない。「カンガルー日和」をはじめ、村上の初期作品の男性は常に父になることを拒否する。それゆえに女性たちが母になろうとしても、それは無理なことだ、とする。そのうえで成熟しようと志す。

 その結果、女性たちは「僕」の前で口を閉ざすようになる。

 村上春樹という国民的作家といってよい書き手が、夫婦のまま親になるという物語を引き受けることの難しさを図らずも描いている。それ自体が、この国の夫婦のディスコミュニケーションの問題を表現しているのではないか。