同時に組織面でも急拡大の時代を迎えていた。
右肩上がりの成長が続く中では、品質の良い製品を効率的に生産し、欧米に輸出すればいい。組織や人材の面でも、それぞれの部門別の運営が会社の基盤となって急成長した時代だった。
結果として、開発や生産、国内販売、輸出など、それぞれの部門の中だけで業務システムが構築され、従業員の業務経験やキャリアもそこで蓄積されていくようになっていった。つまり製造業の会社に入れば、あの人は開発畑の人、この人は国内販売一筋といったキャリアの積み方が普通になったわけだ。
多くの大規模製造業にとって「国際化」とは、輸出によるマーケットの拡大を意味した。日本人の海外駐在員の下、現地社員による現地販売会社が構成され、販売拡大の川下の業務を担った。中小規模の製造業も大手製造業の下でケイレツ(系列)として、あるいは大手商社を経由した輸出によって、同様の成長段階を迎えるのである。
私が日産に入社した1977年は、おおざっぱにまとめれば以上のような時代だった。
「ケイレツ」の重さ
ある日の昼下がり、私は工場回りの移動の途中で神奈川県藤沢市の駅前の喫茶店に立ち寄ってランチを食べていた。
前の席にいる年配の女性2人の話が耳に入った。
「Aさんちのお兄ちゃん、日産に勤めているんだって。すごいと思わない?」
「あのお兄ちゃん、就職したの。日産? あら、良かったわね。どこまで通っているの?」
「寒川にある大きな工場らしいわよ」
神奈川県寒川町は湘南から少し内陸に入った地域で、いち早く企業誘致が進み、大小多くの工場が立ち並んでいたが、日産の工場はなかった。「おかしいな」と思って聞き耳を立てていると、どうやら寒川で日産向けに車の内装品を作っていたK工業のことらしいと分かった。
地元の人々にとっては、日産向けの部品工場も日産そのものと受け止められているのか……、と少し驚いたのを覚えている。系列的な構造は社会の中でも「一心同体」と認識され、1960年代後半以降の急成長の中で、系列のサプライヤーも地元では大企業とみられる存在になっていることを改めて実感したのだった。







