とりわけ日産は各社に先駆けて海外への大規模投資を行い、国内で生産して輸出するという形から、海外で現地生産して販売するという形に急ピッチでシフトしていた。その結果、現地生産を含めた海外事業の成果が日産の収益に大きく影響するようになった。
ところが、事業そのものは依然として旧型、つまり「国内で生産して輸出する」という時代にでき上がった土台、仕組み、経験によって運営されていた。
西川廣人 著『わたしと日産 巨大自動車産業の光と影』(講談社)
他社に先駆けて海外生産にシフトするのなら、それに対応した運営方法を身につけるべきだった。社内の議論や模索はある程度あったと思うが、結果として、新事業をうまくコントロールできないまま海外事業の規模ばかりが大きくなり、大幅な収益悪化を招いたのである。
海外投資を急速に推し進めた当時の石原俊社長(社長在任1977~85年)以下の経営トップを批判的に見る向きが多いが、事業の進むべき方向としてはむしろ慧眼といえる革新的な動きだったと私は考えている。
ただし残念ながら、当時の経営幹部には時代先取り型の事業モデルを的確に運営する能力と経験が欠けていたと言わざるを得ない。
その後のバブル経済の中で「シーマ現象」(日産が1988年に発売した高級車「シーマ」が大ヒットした)などと持てはやされ、海外生産をベースにした事業運営や収益管理の改善が生命線であるという危機感、切迫感を欠いてしまったことも大きかったと思う。
それが後年、ツケとなって大きな収益悪化を招いたのだった。
自動車業界では他社も同じように構造転換を求められる状況にあり、各社とも同じような難しさを抱えていたと思うが、トヨタの「トヨタ生産方式(TPS)」など、それぞれ独自のスタイルを海外でも徹底させながら、この重要な転換期を乗り越えていった。
ところが皮肉にも他社に先駆けて海外生産にシフトした日産は乗り越えられなくなっていくのである。







