日産もサプライヤーも地域から認められる存在になってよかったと思うべきかもしれないが、私の受け止め方は少々違っていた。こうした地域からの見られ方、地域の期待をさらに増幅させていって、将来大丈夫だろうか……。

「重いな」

 そう感じたというのが正直なところだ。

 当時、日産向けの部品のサプライヤー群は二つに分けられていた。

 一つは日産と資本関係があり、日産依存の大きい「宝会」と呼ばれるグループ。もう一つは、資本関係がなく、独立した大手のサプライヤーで、日産だけでなく広く自動車業界に部品を供給している「晶宝会」と呼ばれる会社群で、タイヤやガラス、ベアリングなどの大手企業がメンバーになっていた。

 私が担当したのは「宝会」の会社が中心だった。1960年代後半から70年代にかけて成長し、当時の東証二部に上場した会社が多く、先述した女性たちの会話に出てきた「K工業」もその1社だったと記憶している。

 まさに日本のモノづくりの現場、ケイレツ(系列)といわれた自動車メーカーを頂点としたピラミッド型の企業間関係が機能していた時代であり、その中にどっぷりつかった日々だった。

 オイルショック以降の為替変動や原材料費高騰に対応するため、生産の効率化と原価低減をさらに進める……。それが少なくとも私のいた職場では最重要課題になっていた。

 当時、オイルショックで停滞した輸出が北米を中心にまた伸び始めていた。日本で製造し、北米に輸出する。この基本的な構造は変わらず、成長の原動力の花形は依然として輸出部門だった。その数年後には日米貿易摩擦が激化し、自動車業界も輸出型から海外現地生産型に事業構造の大きな変換を求められる時代に入る。

 その後、日産も私のキャリアも時代の渦に巻き込まれていったわけだが、日常の仕事や職場の会話などからはその予兆は感じなかった。

 1980年代から90年代にかけて、米国との貿易摩擦、プラザ合意(1985年9月、先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁が米国の極端なドル高を是正するため協調介入を実施することで合意)以降の円高といった事業環境の変化によって、自動車産業は輸出の抑制、現地生産型へのシフトを強く求められる時代に入った。

 日本の自動車各社はこぞって大規模な海外生産投資、海外生産への移行を始めていた。