秀吉に屈しなかった男、成政

 勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、北ノ庄城で自害すると、成政も秀吉に降伏します。

 しかし成政は、自分は秀吉に降伏したのではなく、あくまでも織田家の家督を継いだ信雄に降伏したのだ、という立ち位置を崩しませんでした。だからこそ、小牧・長久手の戦いののち、信雄が秀吉と和睦しても、成政は、織田家の敵と認定した秀吉と戦い続ける道を選んだのです。

 その結果が「さらさら越え」でした。

 極寒の北アルプスを越えて浜松までやってきた成政は、家康に共闘を求めましたが、家康は応じませんでした。成政は、失意のうちに越中へ戻ることになります。

 それでも、秀吉への対抗姿勢を崩さなかった成政に対し、翌天正13年(1585)、秀吉は大軍を率いて越中へ攻め込みました。

 成政は富山城に籠城しますが、最終的には信雄の説得を受けて降伏。越中の大半の所領を没収され、富山城も破却されます。

 ところが、成政の人生はここで終わりません。

 秀吉の御伽衆となった成政は、九州征伐にも参加。その功績によって、天正15年(1587)、肥後一国を与えられ、再び大名となったのです。

肥後で待っていた悲劇

 しかし、肥後では国衆たちの反乱が発生します。

 成政は領国経営のための検地を急いで進めましたが、肥後の国衆たちは、秀吉から所領を安堵されていたはずなのになぜ改めて検地をするのか、と反発しました。

 さらに成政は、一揆への対応を秀吉に十分に相談せず、自力で鎮圧しようとしました。

 事態が悪化したため、成政は大坂へ出向いて謝罪しようとしましたが、秀吉の怒りを解くことはできませんでした。それどころか成政は、天正16年(1588)、尼崎で切腹を命じられ、その生涯を閉じてしまいます。