重臣・石川数正が出奔、秀吉が進めた家康討伐計画
天正13年11月13日、徳川家中を揺るがす事件が起きました。重臣で岡崎城代を務めていた石川数正が出奔し、秀吉のもとへ走ったのです。
徳川家の重臣、石川数正が出奔。秀吉の家臣となった (C)NHK 拡大画像表示
数正は徳川家の軍事や外交に深く関わっていた人物です。その出奔によって、徳川方の軍事機密が秀吉側に漏れる危険が生じました。家康は軍制の見直しをはかります。
一方、徳川方の情報を得た秀吉は、家康討伐に向けて具体的に動き始めました。
11月19日、秀吉は真田昌幸に書状を送り、翌年1月15日に家康討伐の軍を動かす予定を伝えています。家康も11月28日、北条氏規に書状を送り、数正の出奔を受けて守りを固める必要があると伝えました。まさに、再び戦が始まろうとしていたのです。
ところが、そんな緊張感が高まっていた11月29日、事態を大きく変える災害が発生しました。天正大地震です。
一夜にして城が消滅~天正大地震の甚大な被害
天正大地震は、天正13年11月29日の夜に発生した大地震で、越中・飛騨・美濃・尾張・伊勢など、中部地方を中心とする広い地域に被害が生じました。さらに近江や京都にも被害が及んだと伝えられています。
当時は地震観測網が存在しなかったため、震源や規模を正確に特定することは困難ですが、マグニチュード7~8程度と推定されています。
各地に残る記録や後世の伝承からは、城郭の倒壊、山崩れ、河川の氾濫、火災など、地震がもたらした被害の大きさがうかがえます。
越中の木舟城(現在の富山県高岡市)では、城が倒壊し、城主の前田秀継とその妻が亡くなったと伝えられています。また、小矢部川の氾濫によって、城内にも水が押し寄せ、城下町にも大きな被害が出たとされています。







