帰雲城、長浜城、長島城、大垣城の悲劇

 飛騨の帰雲城(現在の岐阜県白川村付近)では、さらに悲惨な事態が起きました。

 城主の内ヶ島氏理は、佐々成政に味方したことから、秀吉方の金森長近に攻められました。氏理は降伏したものの、所領を安堵されたため、一族や家臣たちとともに城へ集まり、祝宴を開こうとしていました。

 それが11月29日だったのです。

 その夜、巨大な地震が発生し、山崩れによって城と城下町は埋没。城主の氏理をはじめ、多くの一族や家臣、領民が命を落としたと伝えられています。

 近江の長浜城でも、山内一豊の妻・千代と娘の与祢(よね)が被災しました。城の一部が倒壊し、与祢は乳母とともに命を落としたと伝えられています。

長浜城(滋賀県長浜市) Photo:PIXTA長浜城(滋賀県長浜市) Photo:PIXTA 拡大画像表示

 伊勢の長島城では、地盤の液状化や建物の倒壊、火災が起きたとされます。城主の織田信雄は、その後、本拠地を長島城から清洲城へ移しました。

 さらに、美濃の大垣城も大きな被害を受け、京都でも三十三間堂の仏像が多数倒れたという記録が残っています。

秀吉の天下統一計画を狂わせた大地震

 天正大地震による被害は、城や町の破壊だけではありません。交通路が寸断され、兵員や軍需物資の輸送に支障が生じた可能性もあります。復旧や被災地の救済が必要になれば、大軍を動かすことも容易ではありません。

 とりわけ秀吉にとって痛手だったと考えられるのは、家康を攻める際に重要となる地域で大きな被害が生じたことです。

 一方、徳川方も岡崎城などで被害を受けたとされますが、浜松城については大きな被害が伝えられていません。被害の全容には不明な点も多いものの、秀吉の家康討伐計画にも少なからず影響を及ぼしたと考えられます。