リベラルアーツ(一般教養)は
人が自由になるために絶対必要
リベラルアーツは、一般教養と訳される。そもそもは、古代ギリシャや古代ローマに起源を持つ言葉で、「人を自由にする学問」という意味を持つ。古代ギリシャ社会では、自由人とは非奴隷を意味した。逆に言えば、リベラルアーツは奴隷やペリオイコイと呼ばれた非自由人が自由人=市民になるために必要な学問であった。
なぜ必要かと言えば、自由人には投票権が与えられるからだ。そのためには自らの意志を正しく行使できなくてはいけない。そのベースとして、社会人として正しい考え方ができるだけの教養が必要というわけだ。
これを、「常識を身に着ける」という言い方もできるのだが、むしろ、常識(と思っていること)から自由になるためだと言い換えたいと思う。
なぜならば、多くの常識は、枠のある常識だからだ。自分の常識、地域の常識、会社の常識、業界の常識、日本の常識、民族の常識……それらは広く人類全体の“常識”、コモンセンスではない。
そうした自分に染みついた偏った常識から一度解放されて、自由に、もっと広い視野で、社会や人間のあるべき姿を考えるために、リベラルアーツは必要なのだ。
私は改めて、人間が義憤を持つ、そのために必要な基軸を有するためには、リベラルアーツが大きな力になると主張したい。
何も、学校教育を礼賛しているのではない。教育のあり方については多くの議論があろうが、それはここでの本題ではない。
文学や歴史、宗教、哲学、……そうした学問や素養は、社会人教育、次世代リーダー育成、幹部教育でも重要な要素だ。しかし、リベラルアーツの本当の効用を知らずに導入が進められているケースも間々みられる。
リベラルアーツとは、単なる知識ではなく、人が自分の中に確かな基軸を作るためのリファレンスボードなのだ。
宗教にしても、歴史にしても、哲学にしても、何かに傾倒するために学ぶのではなく、むしろさまざまな考えや事実を知り、普遍的な解に近い基軸を自分の中に作り上げるために学ぶべきものなのだ。そのための非常に実用的な道具なのだ。
自分の心を自由にするために、リベラルアーツは学ぶべきだということを、いや、学び直すべきだということをまず言わせていただきたい。