ハロルド・ジェニーン ハロルド・ジェニーンはアナリストがCEOの座についた人物の代表的な例だ。1959年にITT社の取締役となり、同社を世界最大のコングロマリットに育て上げた。その組織戦略の根幹には、事業の多角化こそ強さの源泉、という考え方があった。

 ジェニーンの指揮のもと、ITTは盛んに企業買収を進め350社を吸収、その中にはエイビスレンタカー社、シェラトンホテルズ社、コンチネンタルベイキング社、レビット・アンド・サン社なども入っている。1970年には70ヵ国に400社を展開するまでになっていた。

 その強烈な個性が力を発揮し、ジェニーンの経営手法は成果を上げていた。1959年から1977年の間に、ITTの売上高は7億6500万ドルから280億ドル近くにまで増加。収益は2900万ドルから5億6200万ドルで、1株当たり利益は1ドルから4.20ドルになっていた。ジェニーンは1977年にCEOの地位を降り、さらに1979年には会長からも退任した。ただし、1人の人物の情熱とエネルギーで築き上げられたような会社の場合、その人物が現役を退くと衰退してしまうことが少なくない。ITTの場合も、ジェニーンが退職すると、急速にその組織的な力が衰え始めた。その後継者はジェニーン独特の激しい仕事のスタイルを続けることができなかった。ハロルド・ジェニーンが他界したその月、ITTは他社に買収されてしまう。

生い立ち

 父はロシア系ユダヤ人、母はカトリック教徒のイタリア人というハロルド・ジェニーンは、1910年にイギリスのボーンマスで生まれた。1歳にならないうちに一家はアメリカに移住するが、両親は移住してすぐに別れてしまう。こうした事情から、ジェニーンが子ども時代を送ったのは寄宿学校とサマーキャンプだった。ニューヨーク証券取引所で使い走りの仕事を始めると、夜はニューヨーク大学の夜間部で勉強を続けた。1934年、その勤勉さが実を結び、会計学の学位を手にする。

 それ以来25年間、ジェニーンはクーパー・アンド・リブランド社を皮切りにモンゴメリー社(会計事務所)、アメリカン・カン、ベル・アンド・ハウエル社、ジョーンズ・アンド・ラフリン・スティール社、そしてレイセオン社など、さまざな企業を渡り歩いた。副社長の地位にあったレイセオンを辞めたあと、その人生最大のチャレンジであり、そしてのちに本人の名声を高めることになる仕事が待っていた。インターナショナル・テレグラフ・アンド・テレフォン社だ。一般的にはITTの名称のほうが有名だ。

成功への階段

 1959年にジェニーンが入社したとき、ITTは四分五裂した事業部門の集合体でしかなかった。通信を中心軸とした部門間の結束もばらばらで、売上高はわずか80万ドルだった。1960年代の10年間に大流行した企業組織の構築法のトレンドは、事業の多角化とコングロマリットの形成で、世のCEOは買収熱に浮かれて企業を買いあさった。買収の狙いをつけた企業が利益を上げている限り、どんな業種でも頓着しなかった。ジェニーンもそうした経営者の例外ではなかった。