どうだろう? 日本語で読むよりさらに「政治的自由を保障しますよ」と言っているように感じないだろうか。もちろん、日本の国の憲法なので、原文が英語だろうと“正本”となるのはその日本語訳のほうだろうし、憲法学者や法律学者は、僕の解釈は間違いで、「表現の自由」はあらゆる表現を保障する文言だと言うかもしれない。

 しかし、『絶歌』みたいな本の出版まで「表現の自由」と言ってしまってもいいのか、と感じる市民も多いことはネット上の議論を見ても明らかだ。まあ、僕も法律の専門家ではないので、条文解釈をめぐる議論はこれ以上せず、感想を述べておくにとどめたいと思う。しかし、この「表現の自由」に関しては、解釈以上に重要なポイントがある。

「表現の自由」が
誰かの人権を侵害するとき

 『絶歌』出版の容認派は、まるで「表現の自由」が金科玉条のように語る。その根拠のひとつは、前述した憲法21条。そしてもうひとつは、それが民主主義の根幹であるという「思想」だ。

 もちろんその思想自体は、僕も否定するものではない。「表現の自由」は守るべきという国際社会でのコンセンサスもある。ただし、ものごとにはプライオリティというものがある。民主国家にあってもなお、「表現の自由」より優先されるべきものもある。それが「人権」だ。

 近代国家とは人権国家のことである、と言い切ってもよい。民主主義の根幹も人権思想だ。「表現の自由」とは人権を守るために担保されるべき権利であるとも思う。誰かの人権を侵害するような「表現の自由」など、あっていいわけがないのだ。

 それなのに、「表現の自由」が誰かの人権を侵害している状況が放置されているという現状もある。代表的な例が、リベンジポルノだ。

 交際相手の女性にふられた腹いせに、交際中に撮影した性的な写真をネットにばら撒く。これは日本だけでなく欧米でも社会問題化している。もちろん各国政府も対策に乗り出していて、日本でも2014年11月に「私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律」(いわゆるリベンジポルノ防止法)が成立し、今年2月に、元交際相手の性的写真数十枚をネットにばら撒いた男が逮捕され、有罪判決が下されている

 しかし、逆に言えばこのリベンジポルノ防止法が施行されるまでは、被害女性の人権はまったく守られていなかった。被害女性が画像の削除依頼をしても、サービス・プロバイダーは「表現の自由」の観点から迅速・的確な対応ができていなかった。誰がどう考えても、元交際相手への嫌がらせ、あるいは交際継続の強要を目的として、極めてプライベートな、誰だって公開されたくない性的写真をネットでばら撒く「自由」など許されるべきではないにもかかわらずだ。