広島・長崎に原子爆弾が投下された写真はイメージです Photo:PIXTA

著者で元物理学教授の山田克哉は、原子爆弾の惨状を小学生時代に知り「そのエネルギーはどこから生じるのか?」と疑問を抱くようになる。そして大学生の頃、テネシー大学工学部へと留学。原子力工学で修士号を取るつもりで研究に励み、修士課程の最後の1年間を「オークリッジ国立研究所」で過ごすが……。彼が直面した“壁”について紹介しよう。※本稿は、物理学者の山田克哉『原子爆弾〈新装改訂版〉核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで』(講談社ブルーバックス)の一部を抜粋・編集したものです。

脳裏に焼きついた
被爆者たちの写真

 終戦から20年足らず、当時はまだ1ドル=360円の固定相場制が敷かれており、海外へと渡航する民間人は、大企業の経営者など、ごく一部に限られていた。そのような時代に、私のような若輩者がなぜ海を渡ることになったのか?

 話は、1952年に遡る。私は小学校6年生だった。

 その年の8月、朝日新聞社が発行する「アサヒグラフ」の8月6日号が、「原爆被害の初公開」と題する特集を組んだ。誌面は、被爆者たちの姿を捉えた写真で埋め尽くされていた。敗戦から7年、その記事はおそらく、広島・長崎に原子爆弾が投下されて以降、多くの一般国民にとって初めて目の当たりにした被爆者たちの実相であったことだろう。

 クラス担任の先生がある日、その「アサヒグラフ」を私たち生徒に見せてくれた。手持ちの1冊を、全員に回覧するかたちで順々に目を通させてくれたのだが、誌面を覆う幾多の凄惨な写真は、今でもはっきりと脳裏に焼きついている。

「原子爆弾とは、こんなにも惨たらしい仕打ちを人々に与える兵器なのか……」