「直木は先ず伐られる」とは、才能を誇るものはすぐに人に利用されて身を滅ぼすことになるという意味の成語である。似た成語に、「甘井は先ず竭く」というものもあり、いずれも中国の思想家・荘子による『荘子・山木篇』にある、次の場面が出典である。
孔子が行脚の途中、評判を聞いて教えを求めようとする大勢の人に囲まれた。乞われるままに7日間もろくな食べ物をとらず講義しつづけたため、ひどく憔悴してしまった。そのとき、大公任という人が孔子を見舞いに訪れてこう言った。まっすぐな木(直木)は、材木用にすぐ伐られてしまい、良い水が出る井戸(甘井)は汲まれ過ぎて涸れてしまうものだ。衆人に対して知恵をひけらかせ、才能を誇り名声を高めようとするから、このような災難に君はあうのだ。これを聞いた孔子は感心して、その後は人前で講釈することを控えるようになった(*1)。
荘子は、すべて物の根源というものは同一であり(万物斉一)、奇をてらわず人為を排し、無為自然に生きることを理想とした。それゆえ、名誉を求めてでしゃばることを戒めようとしたのである。孔子が説くような、人それぞれの立場や身分を前提とした徳や礼の体系は、荘子の思想とはまったく相容れないものだった。孔子は『荘子』のなかに何度も登場するが、無為自然に生きるという人生の究極の部分を理解できないために、ぬきんでた知性を持ちながら小手先の知恵や才能だけを誇る人物として描かれる。
「直木は先ず伐られる」の逸話もその一例だ。
*1:参考:『荘子(2)』(森三樹三郎訳、中公クラシックス、2001年)
生存競争と進化
直木の論理は筋が通ったものである。「出る杭は打たれる」ということわざがあり、意味も背景の論理も似通っているものの、私には直木や甘井のほうが格調高く聞こえる。ただし、戦略的思考の観点からさらに深く考えると、木の立場だけに注目し、木を伐る側への考察に欠ける点が面白くないように思う。使い易い木を使い果たしてしまったあかつきには、人は残っている使いにくいものを切り倒すか、あるいは良い木を求めて移動を始めるであろう。その結果、森には再び直木が生えてくるかもしれないではないか。このあたりは、狩りをする動物と狩られる動物の間の関係を思い浮かべると、よりよく理解できるだろう。
今、ライオンのような肉食動物と、ウサギのような肉食動物のえさになる動物を考えてみよう。ウサギはライオン相手にたいした防御はできず、ちょうど直木が伐られてしまうように、ライオンに見つかれば食べられてしまう。では、ウサギが食べつくされ淘汰されてしまうかというと、必ずしもそうではなく、事情はとても複雑である。
たとえば、ウサギの親1羽に対し、1年で10羽の子供が生まれて親は死ぬとしよう。ウサギに敵がいなければ、ウサギの数は毎年10倍になる計算だ。しかし、ライオンは毎年20羽のウサギを食べるとしてみよう。もしライオンがウサギと同数いれば、ウサギが増える数よりも食べられる数のほうが大きい。この場合は、たしかにウサギは絶滅してしまうだろう。
しかし、もしライオンの数がウサギの10分の1であればどうなるだろう。10羽のウサギは100羽に増えるが、1頭のライオンはそのうち20羽しか食べられない。したがって、ウサギの数はむしろ増えていくことになる。