積まれた本写真はイメージです Photo:PIXTA

「古典よりも、今すぐ使える知識を勉強するほうがコスパがいいのでは?」という議論が、受験シーズンになると盛り上がったりする。しかし、そういったコスパやタイパを気にする人ほど、むしろ古典を勉強してみてほしい。時代を超えて読み継がれる作品には、先人の知恵と思考が詰まっている!※本稿は、齋藤 孝『「気づき」の快感』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。

コスパやタイパを重視するなら
古典を勉強するに限る

「学校の授業で古文や漢文などの古典を教える必要はあるか?」

「古文なんて読めたところで生活で使う機会がない。それなら社会人になっても使える知識を学んだほうがいいのでは?」

 受験シーズンになると、ネット上ではこういう議論が盛り上がるそうです。

 古文は文法を覚えるのが大変で、苦手だという人の気持ちはわかります。でも、私は古典の知識が不要だとは思いません。

 最近の若者はコスパ(コストパフォーマンス)やタイパ(タイムパフォーマンス)に敏感といわれています。コスパやタイパを重視するなら、むしろ古典を勉強するに限るのではないかと思っています。

 そもそも、人間の思考はある程度パターン化されています。『千の顔をもつ英雄』(ジョーゼフ・キャンベル著、早川書房)、『神話の力』(ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著、早川書房)といった本を読むと、世界中に伝わる英雄譚は似たようなパターンで書かれていることがわかります。

 例えば、日本の『古事記』には、次のような話があります。

 イザナキが亡き妻・イザナミに会うために死者の国である黄泉の国に行った。イザナキが「帰ってきてくれ」とお願いすると、イザナミは「黄泉の国の神と相談するので、その間は私を決して見ないでほしい」と忠告します。けれども、いつまで経ってもイザナミは一向にあらわれない。しびれを切らしたイザナキは御殿の中に入りイザナミの変わりはてた姿を見てしまう。醜い姿を見られたイザナミは怒り狂い、イザナキはイザナミから追いかけられ、殺されそうになる――。