社長を電撃解任し、会社を私物化していた大株主の服部礼次郎(89歳)と、その側近を排除したセイコーホールディングス(以下、セイコー)。体制崩壊へと至る過程で、反主流派は「磁石に吸い寄せられるようにつながった」と言う。創業家の服部真二(57歳)を社長に据え、新たな船出を果たすも、服部家の影響力は健在だ。(「週刊ダイヤモンド」編集部 小島健志)
「礼次郎(れいじろう)さんが委任状を渡してくれない」
6月上旬、服部家の資産管理会社「三光起業」の株主総会を控え、セイコー関係者には緊張が走った。
三光起業は、セイコーの筆頭株主である。服部礼次郎は、三光起業に約4割出資する大株主で、セイコー自体の大株主でもある。
今回の社長解任劇で“追放”した礼次郎が委任状の提出を拒否し、わざわざ総会に出てくる。社長を解任し、三光起業を通じ、セイコーを実質的に支配するのではないか。その懸念が広がったのだ。
セイコーは今、必死に生まれ変わろうとしている。だが、最大のリスク要因は、いまだに創業家の服部家にあるのだ。まずは、セイコーの経緯に触れ、今回の解任劇の内幕を明かそう。
セイコーは、1881(明治14)年、創業者の服部金太郎により輸入時計販売店の「服部時計店」から始まった。92年には、工場部門の「精工舎」を設立し、国産初の腕時計の開発に成功する。1937年、腕時計や懐中時計の製造部門として「第二精工舎」が誕生。電子デバイス製造を強みとする「セイコーインスツル」(SII)に成長する。その疎開工場として長野で発展したのがプリンタ大手の「セイコーエプソン」だ。
この3社は、時計の技術を国際水準まで高め、69年には水晶振動子(クオーツ)時計を世に出す。電池式の正確、安価な時計で、世界を席巻。世界のセイコーになる。
「セイコーの悲劇」といわれる87年、礼次郎の兄で、服部真二の父、服部謙太郎が急死する。エプソン初代社長の服部一郎も死去。以後、礼次郎が総帥としてグループを治めることになった。だが、業績は低迷する。有利子負債は売上高とほぼ同じ3000億円にふくらみ、96年に5期連続の赤字を計上。精工舎も清算した。
礼次郎の影響力は、2001年にセイコー取締役を離れた後も続く。「和光」に入社後、礼次郎の秘書として長年仕えた鵜浦典子が頭角を現す。売上高100億円規模の和光ながら、鵜浦は07年にセイコー取締役に就任する。2人の意向に、前社長の村野晃一は従うのみで、「歯向かえば首を切られる」(関係者)状況になった。
2度(3月15日記事、5月10日記事)にわたり本誌が追及したように、その頃、セイコーは戦略不在のまま、グッチビルなど銀座の不動産を買い漁った。和光の耐震工事や店舗拡張を図り、有利子負債は増加に転じた。リーマンショックで、腕時計事業が不振になると、会社存亡の危機に直面した。