自分の代が終わっても、屋号は100年を生きる……。
そんな蕎麦屋を興したいと始めたのが「坐忘」だった

 玄関の潜り戸を抜けて広々とした店内に入ると、壁に描かれた昔風の文字や絵が目に飛び込んでくる。見ると、江戸時代の生花について書かれた書物の頁が、壁紙に整然とあしらわれているのだが、どこか懐かしい、けれどもモダンな印象を与える。

 18年前の蕎麦屋の設計デザインでは画期的なものだったろうし、今もまだ斬新さを失ってはいない。招かれた人は自分が抱いていた蕎麦屋のイメージとの違いに驚くに違いない。

(写真左)お座敷の座卓でゆったりと過ごせる。和の造作にモダンな設えがされ、壁面は江戸時代の生花教本の復刻版で覆われている。(写真右)席から見える入り口。本の装丁者に設計を依頼した不可思議な空間だ。

「坐忘」は兄弟二人で営む蕎麦屋だ。兄の久信さんが料理担当で、弟の敏行さんが蕎麦担当である。蕎麦屋はいろいろ見てきたが、兄弟で蕎麦屋を開いているのは珍しい。

 先代である二人の父親は元々、惣菜屋、餅菓子屋、ラーメン屋と商いを変えてきたが、昭和47年に機械打ちの蕎麦屋を始めたという。

「父が45歳くらいで、僕はまだ20歳の頃。僕は餅菓子作りのような職人技術が発揮できて、代々続くようなものが好きだったんですが、父が蕎麦屋をやるというので、仕方なく手伝ったんです」(久信さん)。

 先代が開いた蕎麦屋は大繁盛だった。80年代のバブル期には総勢7人で店を賄い、他にも饂飩店を展開する勢いだったという。しかし、バブルが崩壊すると店の経営は苦しくなり、饂飩屋は整理することになった。この少し前から「これからは手打ち蕎麦の時代だ」と考え始めていた兄弟は、休みの日に手打ち蕎麦屋を回り、慎重にリサーチを始めた。

「手探り状態でした。確かに手打ちは有望だと思いましたが、その時代の空気だけに乗っていいものか、継続性を念頭に置いて二人で話し合いました。」

 こう語る久信さんは、代を重ねて残る店、自分の代が終わっても屋号は“100年を生きる”ような店を興せないかと考えていたという。