超金融緩和がもたらすカネ余りを背景に、巨額の投資マネーが怪しげな企業に流れ込む。フェイクで強欲な奴らがバブル再来を謳歌する一方、貧困層は増大し、経済格差は広がるばかり。そのうえ忖度独裁国家と化したこの国では、大企業や権力者の不正にも捜査のメスが入らない──。
そんな日本のゆがんだ現状に鉄槌を下す、痛快経済エンターテインメント小説が誕生! その名も『特捜投資家』。特別にその本文の一部を公開します!
第1章 バブル、再び(2)
「なにびびってんのよ」
真っ赤なルージュが鮮やかな唇をゆがめ、冷笑する。
「牧口も同じ人間じゃん」
有馬は奥歯を噛みしめた。女は両腕を組み、豊かな乳房を誇示するように押し上げ、なんか文句ある、とばかりに鋭い視線を飛ばしてくる。
五反田富子、33歳。クールな美貌と巧みな弁舌を駆使し、成功した男たちを渡り歩く、別名、サクセスジャンキー。上昇志向と自己顕示欲の塊の、自称“スーパー起業ウーマン”だ。
この女に弱みを見せてはならない。尻の毛まで毟り取られてしまう。有馬は平静を装って返す。
「びびってなんかいねえよ。腹になんか入れようと思ってな」
かたわらのテーブルの銀食器から寿司を取り上げる。極上のトロだ。それ、あたしのよ、と唇を尖らせる富子を無視して、醤油をつける。
「朝からずっと取材と原稿書きで、気がつけば昼飯抜きだ。さすがに目が回る」
ウソつけ、と己につっこみを入れつつ、シビアな現実を反芻する。実はヒマでヒマで仕方がない。万年床から這い出したのが昼すぎ。パチンコで時間を潰し、このパーティが今日の一発目。それでおしまい。差し当たって明日からの予定はない。が、悩まない。考えない。陽気に言う。
「気力体力を過信して無理するもんじゃないな」
トロを口に放り込む。ゆっくりと咀嚼する。美味い。さすがは銀座の老舗。ネタもシャリも極上だ。ああ、カップ麺と牛丼が主食の身には夢のような、ぜいたくで豊潤な味だ。
「情けないやつ」
富子がせせら笑う。
「いくら貧乏でも、いいおっさんが寿司食って泣くかねえ」
泣く? やっべえ。有馬は顔を伏せ、目尻を指でぬぐう。
「ちょいとサビが利きすぎだな」
「ウソつけ」
富子は言下に斬り捨てる。
「ブンヤ、あんたが仕事ないの知ってんだから。なんといってもあたしは──」
ダイヤのピアスを指先でぴんとはじき、片眼を瞑る。
「地獄耳だから」
有馬はエビとウニを口に押し込み、ほおを膨らませて食いながら、もうブンヤじゃねえぞ、と不機嫌に返す。
「おれは一年と半年前、読日新聞を辞めている。いまはフリーのジャーナリストだ。富子、いいかげん憶えとけ」
あああっ、と富子は大仰に目をむく。
「いま、富子って言ったな」
「言ったよ。おまえは五反田富子だろ。草深いド田舎出身の」
富子は唇を震わせ、顔を真っ赤にしてまくしたてる。
「世間での通り名は椎名マリアだよ。ちゃんと名刺、渡したでしょ。ブンヤならしっかり整理しとけよっ、イロハのイだろっ」
罵声を浴びながら、有馬は思い出す。忌まわしくも強烈な光景を。
この女と初めて会ったのは1年前。ネタ元として面白いから、と出版社の知人に紹介され、青山の高級フレンチ店で晩飯を食った。
カチっとしたベージュのスカートスーツに、大粒のパールネックレス。マリンブルーのケリーバッグ。触れれば凍りそうな冷たい美貌。有馬は一分のすきもない凜としたたたずまいに圧倒されながら、差し出された名刺を恭しく受け取った。
椎名マリア。知人から事前にレクチャーされたその経歴は華やかのひと言だった。鎌倉で生まれ育ち、慶應義塾大学卒業後、財務省の高級官僚と結婚。一児をもうけるも、起業家を目指して離婚。現在、広尾でバリバリのキャリアウーマン、いわゆるバリキャリのための子育て支援会社を運営する一方、若手経営者を囲んでの勉強会も主宰。その華麗な人脈はIT業界から政財界まで多岐にわたり、これはネタ元として使えるかも、と期待したが、みごとに当てがはずれた。
椎名マリアが大ぶりのアワビのステーキをナイフで切り分けながら吐いた強烈なセリフはいまも耳に残る。
「クオリティペーパーの読日新聞はいちおうブランドだけど、社会部じゃあ潰しは利かないわよ。いまどき泥臭い事件屋なんて流行んないもの」
あなた、道を誤ったね、と言わんばかりだった。椎名マリアは帰り際、とどめとばかりにこんな言葉を投げつけ、ケリーバッグ片手に颯爽と去って行った。
「政治部か経済部出身ならあたしとウィンウィンの関係になれたのに、残念ね」
黙って見送るしかなかった。たしかに政治部、経済部の連中は政財界上層部のセレブ連中としっかりつながり、ゴルフに酒、カラオケと親密な関係を構築している。社会部出身の地味なライターに利用価値はない、将来もない、と宣言されたにも等しい。
さすがに癪にさわり、後日、椎名マリアの背後を探ってみた。すると出るわ出るわ。クールな美貌の下の素顔に唖然茫然。
本名、五反田富子。鎌倉ではなく、岩手県の山間部出身。慶應大学時代は椎名マリアの名でタレントクラブに所属して女性誌のモデルやイベントコンパニオンをこなしつつ、合コン三昧。参加男性はエリートビジネスマンと医者・弁護士・高級官僚限定の、超セレブ合コンである。
ネットに高校時代の写真がアップされていたが、おさげ髪の、りんごのようなほっぺをした素朴な顔立ちに息を呑み、都会の水で磨き抜き、変身したサクセスジャンキー“椎名マリア”の執念に恐れ入った。
そのクールビューティ然とした美貌と精力的な合コン活動で築いた人脈の甲斐もあり、大学卒業後、大手広告代理店にコネ入社。27歳で東大出の財務官僚をゲットし、念願の玉の輿婚を成就。資産家である夫の実家の援助で港区に高級マンションを購入。晴れてセレブな専業主婦に。
長男をもうけながら離婚に至った原因は、富子のたび重なる浮気とも、浪費癖から生じた莫大な借金とも噂されたが、ともかく、長男を旦那に押しつけ、晴れて独身に戻ったサクセスジャンキーはさらなる高みを目指し、上流階級の男たちと次々に関係を持ったという。
もっとも、自称“スーパー起業ウーマン”も実社会の荒波はきびしかったようで、コンサルティングファームやウェディング企画会社を立ち上げるも、ことごとく失敗している。
が、富子は死なない。ゾンビのごとく甦り、「働き方改革」を標榜する首相を味方につけて、共働きバリキャリ女性のための子育て支援会社『ナニーズダイヤリー』を広尾に創業、その社長におさまっていた。「金主」は、“打倒アマゾン”が座右の銘のネット通販会社社長だと噂された。
有馬はその後もパーティで幾度か顔を合わせたが、富子のまわりには常に男たちがいた。いずれもはだけた浅黒い胸でゴールドのネックチェーンがあざとく光る、典型的成り金タイプばかり。
富子は顔を合わせるたびに、ブンヤ食えてんのか、仕事回してやろうか、ライターなんて将来性ゼロじゃん、と上から目線の発言を連発。日焼けしたセラミック歯の男たちを従えて笑い転げた。
頭に来たので一度、週刊誌に書いたことがある。「自称、スーパー起業ウーマンの呆れた素顔」のタイトルで出生地の詐称から学生時代の超セレブ合コン、実力者に取り入りカネを引っ張る手練手管、お粗末な経営手腕。結論として、手掛けた数々のベンチャーは愛人ビジネス以外のなにものでもない、とこき下ろしたのだ。実名こそ出さなかったが、ビジネス業界の人間が読めばだれのことなのか、一発でわかるスキャンダル記事である。
烈火のごとく怒った富子は、大手出版社の創立記念パーティの場でかち合うや、凄まじい形相でののしってきた。ふざけんな、てめえっ、なにさまのつもりだ──有馬も負けじとののしり返し、いつしか毒舌で応酬し合う関係に。そうこうしているうちに広尾の子育て支援会社も倒産してしまい、新たな金ヅルを探しているとは聞いていたが──。
「わかってんのか、ブンヤ」
鼻にシワを刻み、富子が吠える。
「あたしはバリキャリの中のバリキャリ、スーパー起業ウーマンの椎名マリアだよっ、憶えたかっ、この貧乏人!」
にらみ合う。周囲がざわめく。華やかなセレブ連中が好奇の目を向けてくる。富子はわれに返り、こわばった笑みをつくる。
「名前くらい憶えておいてくださいね」
優雅な手つきでウェイターを呼び、シャンパングラスを取り上げ、そっと唇をつける。ひと口飲み、おいしい、と甘い吐息をもらす。ほおが薔薇色に染まる。そして小首をかしげ、
「ビジネスのエチケットよ」
ねえ、と周囲に粘っこい瞳を向け、相槌を求める。ああ、まあ、そうかな、と一様に言葉を濁し、目をそらす。しらっとした空気が漂う。サクセスジャンキーの悪名は数々のスキャンダルとともに鳴り響いているようだ。アロハやTシャツの富豪連中はいっせいに背を向け、露骨に距離を取る。富子は目を伏せ、唇を噛む。少し同情してしまう。