超金融緩和がもたらすカネ余りを背景に、巨額の投資マネーが怪しげな企業に流れ込む。フェイクで強欲な奴らがバブル再来を謳歌する一方、貧困層は増大し、経済格差は広がるばかり。そのうえ忖度独裁国家と化したこの国では、大企業や権力者の不正にも捜査のメスが入らない──。
そんな日本のゆがんだ現状に鉄槌を下す、痛快経済エンターテインメント小説が誕生! その名も『特捜投資家』。特別にその本文の一部を公開します!
第1章 バブル、再び(1)
まぶしい。目を伏せる。くすん、と鼻を鳴らし、顔をしかめる。香水の匂いがきつい。甲高い談笑の渦も、ジャズピアノの尖った生演奏もうるさい。つまり、自分はこの場にまったくそぐわない、ということだ。
有馬浩介は和服のコンパニオンを呼び止め、バーボンのソーダ割りを受け取る。シラフじゃやってられない。のどを鳴らして飲む。ぽっと首筋が熱くなる。
改めて周囲を見回す。黄金色の間接ライトが照らす華やかな空間。漆黒のグランドピアノと、白皙の貴公子然としたピアニスト。フロアで飲み食いしながら談笑する客たち。
男も女もラフな格好が多い。Tシャツにポロシャツ、ジーンズ。タンクトップにマイクロミニ。なかにはひげ面に派手なアロハとビーチサンダル、サングラス、麦わら帽という砕けた野郎もいる。
高級スーツ、華やかなカクテルドレスの紳士淑女の姿もあるが、莫大なカネを懐に突っ込み、自由を謳歌しているのはTシャツ、タンクトップ、アロハの連中だ。
200人あまり、いや300人はいるだろう。勝手気儘に笑い、しゃべり、環礁の熱帯魚のように軽やかに移動する。気後れ、迷いのたぐいは微塵もない。頭のてっぺんから靴先まで、自信と活力に満ちあふれ、口から金色の息を吐いている。
有馬は二度、三度と瞬きをした。艶やかな光と雑多な刺激臭が目に痛い。爆発するような笑い声と、けたたましい女たちの嬌声。ゴールドの光を振りまくシャンパンタワー。
春。午後7時。六本木のタワービル。地上40階をワンフロアぶち抜いたパーティルーム。四方を分厚いガラスで囲まれた、巨大な金魚鉢のような空間だ。
ガラスの向こうに灯りはじめたネオンの海が広がり、オレンジの東京タワーが炎の柱のように輝く。西の方向に目をやる。朱い夕空を背景に、鋭角の山塊に似た新宿高層ビル街がそびえ、その奥には淡い水色の丹沢山系と、優雅な弧を描く藍色の富士山が見える。
「まったく」有馬はグラスの残りを干す。
「成功者の城ってわけか。羨ましいねえ」
カラのグラスを黒服のウェイターに戻し、己のなりをチェックする。10年は着込んだブルックスブラザーズの紺スーツに、くたびれた黒の革靴。若い時分に奮発したスーツも、いまはサイズが合わず、肩のあたりはパンパンだ。場にそぐわないことおびただしい。なんだかなあ、とぼやきつつ、ネクタイをゆるめ、脂っけのないぼさぼさの髪をかき、毛足の長いカーペットを踏んで歩く。
有名なIT長者とやらが催した、異業種交流会という名の豪華なパーティ。会費3万円。
豪勢な屋台がずらりと並ぶ様は壮観のひと言だ。銀座の老舗寿司屋にミシュラン三ツ星のステーキハウス、有名パティシエの洋菓子店。本格的なバーを模したカウンターでは銀髪のバーテンが客の求めに応じてシェーカーを振り、好みのカクテルをつくってくれる。
芸能人、文化人の姿も散見されるが、参加者のほとんどは有力IT企業や各種新興企業の創業オーナーと役員、それに投資家、ファンドマネージャー、コンサルタントといった若き成功者、およびそのおこぼれにあずかろうとする、狡猾で強欲な取り巻きである。
成功者の平均資産は5億、いや10億円は下らないだろう。20歳そこそこの大学生も珍しくない。まるっきり別世界の住人どもだ。
有馬は声に出さずに愚痴る。こういう浮かれた人種はITバブルがはじけ、ライブドア事件、リーマンショックで叩きのめされ、すっかり絶滅したと思っていたのに、いったいどこから湧いてくるんだ? こっちは食うだけでやっとなのに。
有馬浩介は大手新聞社『読日新聞』を一年と半年前に辞めた、35歳のフリージャーナリスト。社会部記者時代の伝手を頼り、大枚3万円をはたき、面白い生ネタを求めて一般人オフリミットの豪華パーティにもぐり込んだはいいが、場の雰囲気に圧倒されるばかりだ。
話の輪に入っていこうにも、きっかけがつかめない。「最近どうですかー?」と笑顔で二度ほど声をかけたが、黙殺だ。見向きもされない。当然だろう。遠い星からやって来た宇宙人みたいなもんだ。しかも記者時代、なにかと揉めた金融ゴロの連中もいるし、そいつらから見たら縁起の悪い疫病神だろう。さすがに三度目を試す気力はない。
気のおけない知己を探してみた。詐欺や汚職事件を担当する警視庁捜査二課の刑事をネタ元に、取材を重ね昵懇になった暴力団資金源のバブル紳士とか、企業舎弟として派手に稼いだ自称青年実業家とか。だが、見知った顔はひとりもいない。このままだとカラ振りで終わりそうだ。
こうなったら屋台の美味いメシをたらふく食い、高級な酒を浴びるほど飲んで会費3万円分の元を取り、引き揚げるか、とヤケクソ気味の開き直りに転じたところで、前方がざわついた。
談笑が止み、ウィントン・ケリー風のクールなジャズピアノが一転、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』に変わる。熱っぽい勇壮なメロディが流れるなか、人波がふたつに割れる。
「みなさま、盛大な拍手をっ」
マイクをつかんだタキシードの男が顔を紅潮させて叫ぶ。携帯端末ショップチェーンを全国で展開したやり手起業家で、名前は田代秀美。まだ30代半ば。この会の発起人のひとりで、有馬の同世代である。
「『ワールドワン!』牧口翔会長の御登場です」
万雷の拍手が沸き起こるなか、ふたつに割れた人波の間を小柄な中年男が歩いてくる。丸顔に、ずんぐりした身体。目を糸のように細めて笑いながら、雄々しい『ワルキューレの騎行』とともに、両手を掲げて進む。おまえは藤原喜明か、と、この場のだれにもわからないつっこみを入れ、貧しいフリージャーナリストはひとりほくそ笑む。
牧口を囲む黒服の屈強な男たちはボディガードだろう。片耳にイヤホンを差し込み、袖口に装着した小さなバー状のマイクで外部とやり取りしている。秘書、側近とおぼしきビジネススーツの男たちの姿もある。アタッシェケースをさげた紳士ふたりは顧問弁護士か。総勢で30人はいる。
牧口は米国のスタンフォード大学を卒業後、一代で年間売上13兆円の巨大情報通信企業『ワールドワン!』を築き上げた、立志伝中の人物である。一番弟子を自任する田代がここぞとばかりに胴間声を張り上げる。
「牧口会長はこの会にご出席のため、多忙なスケジュールを縫い、ロンドンより自家用ジェットで帰国されましたあっ」
うおっ、と歓声が上がり、湿った熱気を切り裂いて鋭い口笛が飛ぶ。会長、待ってましたあっ、ショー、ショー、グレートショー、と割れるような大声が上がる。ピアニストも鍵盤に両手を叩きつけるようにして『ワルキューレの騎行』を豪快に、劇的に弾き、マイクを持つ田代のテンションもさらに、ロケットのごとく上昇する。
「この場に30分ほど滞在され、ヘリで羽田へUターン。ニューヨークへ出発されます」
やっぱ世界の牧口だ、グレートショーだ、自家用ヘリにジェットかよ、スケールでっかいっ、と感嘆の言葉が錯綜する。牧口がこぼれんばかりの笑みを振りまき、愛想よく歩いてくる。
ちっぽけな島国の、成功者を自負する若きIT長者たちがこぞって憧れの眼差しを向け、スマホで写真を撮り、ちゃっかりツーショットにおさまり、先を争って握手を交わす。厚かましくも、着ているTシャツにサインを頼み込む輩もいる。牧口は笑顔でペンを走らせる。個人資産3兆円という日本屈指の富豪にしてカリスマ起業家のまばゆいオーラに、有馬は圧倒され、思わず後退さる。
おいっ、背中をバシッと叩かれる。いてっ。
「しっかりしなよ、ブンヤ」
有馬は振り返る。背の高い女が冷然と見つめてくる。おまえは──スタイル抜群のボディラインに胸元を大胆にカットしたゴールドのイブニングドレス。艶やかな漆黒のセミロングと切れ長の瞳。一見すると近寄りがたいクールビューティだが、口を開けば毒舌満開だ。