そのAさんがしっかりインフルになった。中3の息子が受験する年で、家族は皆予防接種を受けていたが、Aさんはインフルを侮っていたので妻からの再三の要請を拒否しての罹患である。「そら見たことか」と妻の気勢凄まじく、万が一息子にうつったらどうするのかと詰る声をAさんは朦朧とした意識で聞き流していた。

 日ごろ健康とのたまっていたAさんであるから、つまりあまり風邪を引いた経験がなく、いざ風邪を引いてしまうと耐性がなくて衰弱しきった。高熱でうなされる中、何度も「このまま死ぬかもしれない」と思い、気持ちも弱くなって、部屋で一人病床に伏せる寂しさもこたえたのであろう、弱々しい声で何度も妻を呼びつけて「水をください…」「熱を測ってください…」と必要なことからどうでもいいことまで身の周りの世話をしてもらおうとした。

 妻が面倒を見たのはAさんが高熱でダウンした一晩だけであった。翌朝病院で「インフルエンザ」とのお墨付きをもらうと妻の態度は一変した。病院から帰宅したあと、Aさんが何度呼んでも妻は一向にやってくる気配がない。

 数十分して部屋の扉がバンと開けられると妻がAさん愛用のスーツケースとともに入ってきて、「今から引っ越してもらいます」と告げた。

「どういうことだ。引っ越すってなんだ」と戸惑うAさんを妻は手際よく引っ立てて車に押し込んだ。ハンドルを握った妻はいずこかに向かいながら、「息子にうつるといけないから治るまでウィークリーマンションに住んでいて」と説明した。寝室から車までの移動で体力を使い果たした感のあるAさんだったが、やっとの思いで「じゃあおれの看病は」と口にしたが、「それくらいなんとかなるでしょ。いい大人なんだからみっともない」と妻は冷たかった。むしろ「こんな世話を焼かせるなんて」とAさんに対して怒りを向けている様子である。

「息子が受験を控えた身だった、というのは大きいと思う。妻は教育ママというわけではなかったが、志望校の受験に向けて勉強に励む息子を、夜食を作るなどして支えてきていた。インフルになった私は受験を控える息子にとっては不穏な要素でしかなく、妻の判断は完璧かつ賢明だとも思ったが、予防接種を受けなかった私に対する怒りや、ひいてはこれまでインフルにかかった妻を小馬鹿にしていた私への意趣返しの、いい機会だったのだろうと」(Aさん)

 ウィークリーマンション強制連行は意趣返しとして効果てきめんだった。不慣れな高熱で精神年齢が幼児返りしていたAさんは「いやだ」「ひとりはつらい」「こわい」と駄々をこねたが妻は「薬を飲めば治るでしょ」「近くにコンビニあるでしょ」と聞く耳を持たない。宿泊先に到着し、妻は部屋にスーツケースを運び入れ、次にAさんを連れていこうとした。Aさんは最後の抵抗で、マンションの入り口に座り込んだ。