人と違うことをやる、リスクを冒してでも新しい道を行く──。イノベーターとして活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきて、そんなたくましさを得たのか。今回は、商品に印刷されているバーコードを媒介に、商品の情報や魅力を多言語で外国人観光客に伝えるサービスを展開するPayke(ペイク)の古田奎輔さんです。(聞き手/「週刊ダイヤモンド」論説委員 深澤 献)

高校中退後、引きこもり
一念発起して琉球大学へ

ああああ
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──どんな子供でしたか。

 一言で言うと問題児でした。先生の言うことを聞かず、好きなことばかりやっていて、学級崩壊の主犯でした。小学校のときには、授業時間中なのに「みんなで帰ろうぜ」と扇動して、クラス全員で学校の外に出たこともあります。

 だからしょっちゅう親は呼び出されていましたが、それで怒られたことはありません。「びっくりしたよ」と言われるくらいでした。

 小学校は家の前だったのですが、毎朝学校に行くのが苦痛でした。8時半始業とか、今考えても無理です。それに、5分遅刻しても1時間遅刻しても同じ遅刻なので、間に合わないと分かったら最後だけちょっと出ればいいやと考えて、給食だけ食べに行ったりしていました。中学では“やんちゃっ子”、いわゆるヤンキーです。毎日のようにけんかして、家に帰らないこともありました。

 ただ、学ぶことは好きで、塾にも通っていたし、勉強はできる方でした。教科書なんて2、3日で読み終わるのに、それを1年かけてやる学校の授業は、時間の無駄だと思っていました。提出物も宿題も一切やらないのにテストの点数はいいという、嫌なやつでした。

──家庭の教育方針は?

 とにかく、放任です。両親は共働きで帰りも遅かったので、食事や友達と遊ぶための“生活費”を月額3万円渡されていました。小中学生にとってはかなりの金額ですが、意外と足りなくて、これを元手にどう増やそうかとか、周りから集められないかとか、そんなことも考えていました。

 ただ、本はいくらでも買ってやるという家でした。でも、父には「興味のあるジャンルの本は買うな」と言われていました。興味のあるジャンルの情報は勝手に入ってくるからです。週末には東京・国分寺の紀伊國屋書店に父と通うのがルーティンでした。そこで、一冊ずつ選ぶのではなく、棚からまとめて10冊抜いていくような買い方をしていました。父は普通の公務員なんですけど、今思うとそれはとてもありがたかったですね。