その後はさらに、呼吸器診療のアクテビティーの高さで全国的にも知られる瀬戸市・公立陶生(とうせい)病院の呼吸器・アレルギー内科で2年間、医員としてトレーニングを積み、01年4月、名古屋大学医学部・第二内科に入局。この頃から世間では、重大な医療事故が、まるでせきを切ったように頻繁に報道されるようになる。

「あの時代、患者側の不安や不満を煽らずに、患者に上手に説明できることも、医師の評価ポイントの1つになっていた気がします。インシデントやアクシデントに関する情報がオープンにされることも、ほとんどなかったのではないでしょうか。そもそも、インシデントレポートシステム(現場で起きた、事故につながりかねないインシデントについて報告し、医療事故・医療過誤防止に生かすシステム)も安全管理マニュアルも存在しませんでしたからね。『医療事故への対応は、弁護士や保険会社の仕事』という認識が当たり前で、医師が積極的に取り組むという発想はなかったように思います」

 大なり小なり、どこの病院でも、医療ミスが起きれば患者に事実を伏せながら、当該医療者は立ち直れないほどの叱責をあびて、孤軍奮闘せざるを得ない現実があった。

「医療の世界で生きていくということは、リスクだらけのやぶの中を、自分の努力と才覚でなんとかかきわけて、生き残っていくサバイバルレースだと感じることもしばしばでした」

「医療安全をやってみないか」
打診され、決心した

 最初の転機は、02年に訪れた。名大病院で起きた腹腔鏡下手術の死亡事故がきっかけだった。

「当時、横浜市大、広尾、京大をはじめ、多くの病院で、次々と重大事故が明るみに出ていたのですが、目立っていたのが病院側の対応の稚拙さでした。

 最初は情報を小出しにして、そのうちリークなどで状況が悪化。対応が後手に回るなかで、追及はどんどん厳しくなる……というのが繰り返されていたのですが、名大病院は、情報公開に踏み切った。外部委員を主とする調査委員会を立ち上げ、『逃げない 隠さない ごまかさない』姿勢で医療安全への取り組みを開始したのです。

 触発されました。閉鎖的だった現場が変わり、事故対応を皆で考える雰囲気が生まれたように感じました」

 同時に長尾先生の運命の歯車も、じわじわと回りだす。