それは、スタジアムの各階の外周に憩いの場としてオープンスペースを設けてソファなどを配置し、デッキを設けないというもの。規定から大きく外れているが、どうしても提案したかった。
通常の国内コンペでは、日建設計は設計事務所の最大手として大きな存在感を発揮する。取れそうな案件なのに規定を破るなどということは、受注を逃すリスクになるので、当然避ける。しかし、カンプ・ノウは、本拠地である日本から遠く離れたアウェー戦。だからこそ、思い切ってみた。
村尾たちの“取って置きの案”を聞いたFCバルサの担当者は当初、慎重だった。外装がないデザインは成り立つのか。デッキがないのに大量の観客をさばく交通整理は可能なのか。エレベーターやエスカレーターの設置など上下に動くための縦の動線の確保はどうするのか。矢継ぎ早に鋭い質問を浴びせてきた。
しかし、彼らを納得させる強力な武器を、村尾は持っていた。
新国立競技場で白紙になったザハ案
「悔しい」だけで終わらなかった
村尾らは15年まで、日本の新国立競技場建設において、白紙撤回された建築家の故ザハ・ハディド氏によるザハ・ハディド・アーキテクツのデザイン案(当初案)に関わっていた。
ザハ案が選ばれた12年11月のコンペにおいて、日建設計は日本人建築家のユニットであるSANAAと組み、ザハ案の対抗馬としてコンペに参加していた。ザハ案に決まると、今度はザハをデザイン監修者としてそのデザイン実現のためにフレームワーク業務(故ザハ・ハディド氏のデザイン案を基にコストや規模などの基本設計条件を整理する)の公募があった。
そこに日建設計は梓設計、日本設計、オーヴ・アラップ・アンド・パートナーズ・ジャパン・リミテッドとともに国内設計事務所による4者JVの一員として選定されたのだった。
しかし、流線形の屋根が特徴で、見る人に近未来的な印象を与えるザハ案は奇抜過ぎた。その総工費は一時3462億円へと膨らんだ。最終的には2520億円に縮小したが、それでも高過ぎるという理由から、15年の安倍晋三首相の決断によって実現しなかった。