ノイマンと原子爆弾

 アメリカに渡ったあとのノイマンは応用数学(実社会に役立つ数学)の研究に没頭するようになる。政治的には愛国主義的な思想を持っていたこともあり、1940年代以降は特に衝撃波と爆発波に関する指導的な専門家として、しだいに戦争の仕事に巻き込まれていった。1943年には原子爆弾開発のためのマンハッタン計画にも参画している。

 なおノイマンが掲げた「大きな爆弾による被害は、爆弾が地上に落ちる前に爆発したときの方が大きくなる」という理論は、広島と長崎に落とされた原子爆弾にも利用された。爆弾の弾道や威力を予測するためには大量の計算が必要になることから、ノイマンはしだいに電子計算機(コンピュータ)の開発にものめり込んでいく。

 弾道計算を目的として最初に開発されたのはENIACと呼ばれるコンピュータだったが、これは、幅24メートル、高さ2・5メートル、奥行き0・9メートル、総重量30トンという巨大さ(約13畳の部屋を埋めつくすほど)でありながら、計算能力は現代の電卓よりも低かった。しかもENIACでは新しい計算をする度に、真空管の配列や配線を一から組み直す必要があったため、いろいろな計算をしようとすると大変不便だった。

 そこでノイマンはコンピュータの内部にあらかじめプログラムを内蔵させておく方式を提唱し、その数学的な基礎設計を与えた。ソフトウェア(コンピュータを動かすプログラムのこと)という概念の登場である(コンピュータ自体や周辺機器などのように目に見える機器のことは「ハードウェア」と呼ぶ)。これにより、プログラムを書き換えれば新しい計算を行わせることが可能になり、コンピュータの汎用性は飛躍的に高まった。

 プログラム内蔵方式のコンピュータをノイマン型といい、ノイマン型は現在でもほぼすべてのコンピュータの基礎になっている。なお、アメリカでコンピュータ産業が発展するきっかけになったのは、ノイマンが書いたプログラム内蔵方式に関する文書が広く公開されたためだと言われている。

 1957年、アメリカ合衆国の首都ワシントンDCにて、ノイマンはがんで死去している。このノイマンのがんの発症については、マンハッタン計画や核実験の際に浴びたとされる大量の放射線が原因だという意見もある。

(本原稿は『とてつもない数学』からの抜粋です)