障がい者スポーツの輪を大きくしたいと考えた中村医師

パラリンピックを創った日本人医師・中村裕と「太陽の家」昭和56年、国際障害者年の記念行事として車いす単独のマラソンを中村医師が提案した(写真上=第1回大分国際車いすマラソン大会)。以降、毎年、「大分国際車いすマラソン大会」(写真下)として開催され、世界最大で最高レベルの大会として、国内外からも高い評価を受けている。 写真提供:社会福祉法人 太陽の家

 日本に帰国し、スポーツを用いたリハビリテーションの導入を提案した中村医師を待っていたのは、同僚の医師たちの大反対であり、「障がい者を見世物にする気なのか?」という患者の近親者からの激しい拒絶であった。当時の日本は、バリアフリーという発想がなく、障がい者は人目を忍ぶように家の中でひっそり暮らすような状況であったから、“スポーツを用いたリハビリテーション”という考え自体を理解される土壌がなかったのだ。

 しかし、中村医師の信念は揺らぐことはなく、その想いに賛同してスポーツに挑む障がいを持つ当事者たちが徐々に増えていった。

 昭和37年、グットマン博士が開いた障がい者のためのスポーツ大会「第11回国際ストークマンデビル競技会」に、日本から中村医師率いる2名の選手が初参加。水泳競技で3位に入賞したことが国内でも大きく報道され、障がい者スポーツに注目が集まり始めるきっかけとなった。

 障がい者スポーツの輪をさらに大きくしたいと考えた中村医師は、昭和39年、東京オリンピックの直後に「パラリンピック東京大会」を開催するために奔走した。国内はもちろん、世界各国からも多くの選手が参加し、「パラリンピック東京大会」は成功したかに思えたが、この大会をきっかけに、中村医師は障がい者の社会復帰を阻む大きな問題があることに気づかされた。