深夜にソチ・オリンピックを観戦し、昼間はワイドショーで「自称」全聾の作曲家・佐村河内守氏のゴーストライター事件の報道を観ていると、自然とパラリンピックのことを考えてしまった。障害者の可能性とか、社会は障害者スポーツとどう向き合うべきか、ということだ。とくに2020年の東京大会における、オリンピックとパラリンピックの関係性はどうあるべきかを考えて、ひとつの結論を得た。
それは、「東京大会では、パラリンピックを廃止すべき」ということだ。
ご存じの通り、現在ではオリンピックの直後にパラリンピックが開催されることになっている。これは、セットにすることがオリンピック開催の要件になっているのだ。
今回のソチオリンピックの後も、3月7日から16日までの10日間、パラリンピックが開催される。しかし、そもそもオリンピックとパラリンピックを分けて開催する必要があるのだろうか。つまり、健常者がやるスポーツと障害者のスポーツを分ける必要があるのか、ということだ。
オリンピックとパラリンピックを
分けることの問題点
オリンピックとパラリンピックに分けることの問題点は2つある。
まず、「注目度の問題」だ。前述の通り、パラリンピックはオリンピック終了後に開催される。つまり、パラリンピックはオリンピックに比べてどうしても注目度が低くなる。2週間以上にわたってオリンピックの白熱したゲームをさんざん観た後では、その直後のパラリンピック観戦は正直言ってつらい。普通の視聴者は体力的にもたないし、観戦することに飽きてもくる。
しかし、パラリンピック選手も、オリンピック選手同様、自分たちの戦う姿を見てほしいと思っているし、障害者支援に関わる人間だって同様だ。むしろ、健常者アスリートよりも「観てほしい」という思いは強いかもしれない。だが、オリンピック後の開催では、どうしても注目度も関心も低下してしまう。
しかしこれは、むしろオリンピックの前にパラリンピックを開催することで回避できる問題かもしれない。パラリンピックを先に開催したほうが、もしかしたらオリンピックもさらに盛り上がるかもしれない。何よりも、パラリンピックを先にやることで、オリンピックの開会式に障害者アスリートも参加しやすくなる。
そんなわけで、パラリンピックを先に開催するというのはひとつの解決策になるだろう。しかし、もうひとつの重要な問題の解決にはつながらない。それは、そもそも健常者スポーツと障害者スポーツを分ける必要があるのか、という問題だ。
基本的に健常者スポーツは健常者だけが、障害者スポーツには障害者だけが参加できる。だから分けるのは当然だと思うかもしれない。しかし、たとえば女子フィギアスケートには女性しか参加できないし、男子スラロームには男性しか参加できない。しかし、だからといって女子オリンピックと男子オリンピックに分かれて開催しているわけではない。同じオリンピックの冠の元で競技を行なっている。