障がい者の就労機会が増え、社会の価値観も変化した
収益の上がる仕事を増やすことが急務だと実感した中村医師は、「世に身心の障がいはあっても仕事に『障害』はありえない。太陽の家の社員は庇護者ではなく労働者であり、後援者は投資者である」と社会に対して啓蒙することに注力した。多くの企業に門前払いを食らいながらもあきらめなかった中村医師に転機が訪れたのは、立石電機(現・オムロン)の立石一真社長との出会いだった。中村医師の考えと熱意に立石社長が共感したことにより、昭和47年に太陽の家との共同出資会社「オムロン太陽株式会社」が設立された。
採用された障がい者たちが高い意識を持ち、熱心に仕事に取り組んだことで、1年目から業績は黒字となる。その実績が評価され、以降、ソニー・太陽株式会社、ホンダ太陽株式会社、三菱商事太陽株式会社、デンソー太陽株式会社、オムロン京都太陽株式会社、ホンダアールアンドデー太陽株式会社、富士通エフサス太陽株式会社と、次々に共同出資会社が設立され、障がい者の就労機会が大きく増えていった。
昭和59年には、愛知太陽の家、昭和61年には京都太陽の家が開所されるなど、障がい者のリハビリテーションと社会復帰のために奔走し続けた中村医師だが、昭和59年に57歳の若さで早逝した。道半ばでこの世を去ることになったが、中村医師が生涯かけて取り組んできたことは、着々と日本全国に浸透していった。
現在では、障がい者の雇用機会は一般企業内においても確実に増え続け、さらに、障がい者スポーツへの関心も高まっている。中村医師が開催に尽力した「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(現アジアパラ競技大会)」「大分国際車いすマラソン大会」は、規模を拡大しながら継続し、障がい者の社会参画をより容易にするためのシステム作りやツールの開発に着手する若年層も活躍している。いまや、障がいを持つ=「多様性は当たり前」と考えられる世の中になった。
ひとりの医師が情熱を注いで蒔き続けた奇跡の種は、やがて芽となり花となり、世代と時代を超えて、いまも美しく成長し続けているのだ。
※参考
「太陽の仲間たちよ」三枝義浩(講談社)
社会福祉法人 太陽の家 公式サイト 中村裕が蒔いた奇跡の種
※本稿は、インクルージョン&ダイバーシティマガジン「オリイジン2019」特集《中村裕が蒔いた奇跡の種〈太陽の家〉とパラスポーツ》内のテキストを転載(一部加筆修正)したものです。
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