妙円寺(東京) 投稿者:@renkouzan  [2020年8月23日]

実はとても難しい「布施」の実践

 今回は東京・原宿にある日蓮宗妙円寺の掲示板です。「仏教名言案内」と投稿されたお寺は言っているので、シリーズとして続けていかれるのかもしれません。

 自分の思いはなかなか他人には伝わらないものです。どんな人でも「こんなにやってあげてるのに」と他人に対して思ったことが一度はあるのではないでしょうか?「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」という有名な言葉がありますが、ついつい「かけた情けをしっかり石に刻んでしまう」のが私たちなのです。

 他人のために何かしてあげることを、仏教では一般的に「布施」といいます。以前、この連載の中でお金のかからない布施(「無財の七施」)をご紹介しました。布施をこのように言葉で説明するのは簡単ですが、純粋な布施を実践することは実はかなり困難です。それはなぜか。布施と呼ばれる行為は基本的に「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」でなければならないからです。

「三輪」とは本来、身業(体の動作や所作)・口業(言葉)・意業(意識や心の働き)の三業のことであり、「三輪清浄」とは三業のすべてが清らかに働いていることを指します。

 これがお布施のときには、「施す者」・「施しを受ける者」・「施す物」を指し、これらが清浄であることを「三輪清浄」と呼びます。ですから、「施す者」は「してあげた」という執着を心に持ってはいけませんし、「施しを受ける者」も「たったこれだけ?」という欲望にとらわれてはいけません。また、「施す物」が盗品などの不純なものであった場合も布施としては認められないことになっています。

 これらの3つがきっちり成立することによって初めて布施を実践したということになります。とはいえ、施す者はついつい「こんなにしてあげたのに」という気持ちが心に残ってしまいます。この「のに」という気持ちは本当に厄介であり、これが引き金となって、のちのち大きなトラブルへと発展するケースがたびたびあります。

 それでは純粋に布施を実践するにはどうすればよいのでしょうか?『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』の中で理想的な布施のカタチが説かれています。仏教伝道協会がホテルの客室などに寄贈している『仏教聖典』の中から、『大般涅槃経』の一部を要約してみます。

 乞うものを見て与えるのは施しであるが、最上の施しとはいえない。心を開いて、自ら進んで他人に施すのが最上の施しである。また、ときどき施すのも最上の施しではない。常に施すのが最上の施しである。

 施して後で悔いたり、施してほこりがましく思うのは、最上の施しではない。施して喜び、施した自分と施しを受けた人と施したもの、この三つをともに忘れるのが最上の施しである。

 自ら進んで常に布施を実践しつつ、「施した自分」と「施した他人」と「施したもの」の3つすべてを忘れることが大きなポイントのようです。そのためには、やはり最初から他人に全く見返りを求めない気持ちが重要となります。

 5~6世紀に、数多くの寺院や仏塔を立てるなど中国の仏教界のために大きく貢献した蕭衍(しょうえん)という梁の初代皇帝(武帝)がいました。彼が、「これによって自分にはどんな功徳がもたらされるだろうか?」と達磨大師に質問したところ、達磨大師はたった一言「無功徳」と答えたそうです。この「無功徳」とは文字通り何の功徳もないということであり、これは見返りを求めることを強く戒めたエピソードとして広く知られています。

 最初は純粋な気持ちで他人に対して布施を行っていたとしても、たまに見返りを求めてしまう瞬間(「やってあげているのに」と思う瞬間)があります。心の中で「あなたのためにやってあげているのに」という憤りが起こったときは、自分自身がなぜ見返りを求めてしまったのか、しっかり見つめることが大切です。

 見返りを全く求めていない心の状態のときに少しでも見返りがあれば、人は幸せな気持ちになることができます。ですから、どんなに小さなカタチでも見返りを求めずに純粋に「布施」を実践し続けられる人は、自分自身の執着を減らすことができ、それによってささやかな幸せが感じられるようになるのです。

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