「自由に取材して自由に書いてくれ」
タブーに切り込んだ本がベストセラーに
どっちもしなかった。それどころかそれを原作にして映画までつくった。すると、僕のいる局の局長が処分されると発表があり、それで会社を辞めざるを得なくなった。1977年のことだ。
――そこからフリージャーナリストとしての道を歩んだのですね。
そう。そのため、いつの日か電通について書かなければいけないなと思った。フリーになってから数年たって、朝日新聞から本を書いてくれと頼まれた。そこで、電通について書きたいと言った。すでに電通はその頃、「(電通本社が築地にあるため)築地編集局」と呼ばれるほどメディアに対して絶大な影響力を持っていて、電通について取り上げるなんてことはタブーだった。
せっかく取材をして書くのだから本を出す前に連載にしようということで、「週刊朝日」で連載をすることになったのだけど、1回目の原稿を出した次の日、書き直してくれと連絡がきた。まだ1日しかたっていないのにどういうわけかわからない。けれど、どうやら電通からクレームが入ったと。
僕は思い切って、広報担当の取締役専務の木暮剛平さんという人を訪れて、そのことについてじっくりと話した。するとなぜか木暮さんは僕のことをおもしろがってくれた。そして、広告代理店はさまざま問題を抱えていること、マルチメディア対応など我々はどこへ進むべきか迷っていること、そういったことも含め、自由に取材して自由に書いてくれ、ぜひ読んでみたいと言ってくれた。クレームが来たからもう連載は続けられないかと思ったが、逆に自由に書いてくれと言う。その後、木暮さんは社長になったけれど、僕はおもしろい会社だなと思った。
それで電通に自由に取材できるようになり、『電通』という本を出版。当時、そのようなタブーに切り込む本はなかったので、ベストセラーになった。
――ジャーナリストとしての田原さんのキャリアに、原子力エネルギー問題というのは常につきまとってきたのですね。
そう。だから原発には非常に興味があった。東日本大震災後も、いろいろと取材をした。それでわかったことは、福島第一原子力発電所事故は、天災ではなく、明らかに人災であったということ。
実は2008年に経産省の委員会で、1200年前にこの地域に12メートルの大津波が襲ったという話題が出ていた。明治にも8メートルの大津波が来たことがあった。福島第一原発の堤防は10メートル。そのことを知っていて当時の東京電力の経営陣は、いずれ堤防を12メートルにしなければならないと思いつつも、カネがかかるため、そのうち、そのうちと先延ばしにした。そこへ東日本大震災が起こってしまった。
原子力発電というのは、核燃料を絶えず水で冷やしていないと、自らの熱で溶け始める。炉心溶融(メルトダウン)に至ると水素が大量に発生し、充満した水素ガスが爆発を起こしてしまう。冷やすためには当然、電力が必要だ。その電力を切らすわけにはいかない。そのため、何かあったときのために非常用発電機を必ず備えている。
福島第一原発というのは、日立と東芝がアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)の原発を導入したものだ。アメリカというのは竜巻が多いため、原発の非常用発電機は地下に置いているが、日立と東芝は何も考えずに、GEの言われるがまま、同じように地下に置いてしまった。これを地上数メートルの場所に置いておけば、福島第一原発の原子炉建屋で水素爆発には至らなかったかもしれないが、津波で非常用発電機が水没して全電源を消失。爆発を起こしてしまった。
それだけではない。避難訓練すらしていなかった。東電の幹部に「何で避難訓練をしていなかったんだ」と聞いたところ、もし事故が起こるようなら(原発の)誘致は反対する、絶対に事故は起きないという条件でしか認めることはできない、と地元に言われていたため、避難訓練ができなかったと言う。避難訓練をするということは、事故が起こる可能性を認めるということだからね。そうなると誘致は反対されてしまう。だから絶対に起こらないと言うしかなかったし、避難訓練をするわけにもいかなかった。でも、事故は起きてしまった。日本人は都合の悪いことは「ないこと」にしてしまうからね。第2次世界大戦でも「日本が負けることはない」とされた。
事故が起こると、東電の本社は現場のスタッフに、撤退しろという命令を出した。しかし福島第一原発の所長だった吉田昌郎さんはこれに反対。吉田さんと現場のスタッフが何とか踏ん張ったおかげで、日本は救われた。その後、いろいろな問題はあるのだけど、これが東日本大震災における福島第一原発事故のあらましだ。