福島第一原発東日本大震災から10年が経つ中、忘れ去られようとしている自主避難者の「今」とは(写真はイメージです) Photo:PIXTA

2011年3月、未曽有の危機の中で
情報不足がもたらしていた不安

 今年3月11日は、2011年の東日本大震災から満10年の節目だった。1000年に1回の大災害がもたらした有形無形の傷跡を、たった10年で消せるわけはない。多くの人々が、何らかの形で、震災とその後を再確認したはずだ。

 しかし、その10年目を前に、忘れられようとしている人々がいる。福島第一原発事故のあと、国や自治体の方針を待たずに避難した「自主避難者」の人々だ。現在は郡山市で暮らす松本徳子さんも、その1人である。

 震災当時、松本さんは福島市の職場にいた。交通機関も高速道路も使えないため、郡山市の自宅には帰れない。雪が降り始めて冷え込む中、同じ状況に置かれた同僚たちとともに、松本さんは市内に設けられた避難所で一夜を過ごした。

 地震や津波が甚大な被害をもたらしていることは、同僚の1人がネットにアクセスすることで知ったという。翌日、同僚たちとタクシーに乗り合わせて、なんとか郡山市に戻り、当面の水と食べ物を買って帰宅した。テレビを見てみると、福島第一原発の1号機が爆発したところだった。

 夫と小学6年生の子どもと3人で暮らしていた松本さんにとって、最大の気がかりは、子どもの健康に対する放射線の影響だった。東京で暮らしていた妹の勧めもあり、春休みは子どもだけ東京で過ごさせた。放射線量などの重要な情報が、なかなか公式には発表されない中、子どもを持つ親たちは独自に情報を収集していた。

 福島第一原発はどうなったのか。そこから60km離れている郡山市に飛来した放射性物質の量はどの程度なのか。松本さんは、親たちのネットワークを通じて知った。

 2011年3月11日以後、誰も経験したことのない事態が続く中、政府も東京電力も報道機関も混乱の最中にあった。情報の隠蔽もあったが、それ以前に、このような危機に際して誰がどのような情報を収集して発信すべきなのか。その責任は誰にあるのか。当時の日本では、「考えられていなかった」といってよいだろう。「子どもを守りたい」と切実に願う親たちは、公式発表を待っていられなかった。