松本さん自身は、郡山市に残った夫の理解に恵まれた。また、災害救助法に基づく住宅提供が打ち切られる頃、郡山市の自宅のローンが完済となり、夫に経済的な余裕が生まれた。数多くの事情が重なり、子どもが高校を卒業した後の2019年からは、郡山市で暮らしている。しかし松本さんが直接知る範囲には、災害救助法の適用が打ち切りとなったり、補助金が打ち切りとなったりしたことによって、文字通り「暮らせない」状況に陥る母子が少なくない。子どもの教育や進路選択にも、当然、影響が生じ続けている。

後出しジャンケンでは理解できない
「あのとき」の極限状態

 自主避難者たちに対して、「福島に帰ればいい」「勝手に福島県を離れて勝手に困窮したのは自己責任」という意見があることは、筆者も承知している。しかし、東日本大震災の発災から数カ月という時期に、その判断は可能だっただろうか。

 当時、東京在住の筆者は、福島第一原発事故から2日間ほどの情報を総合して、「このままジリジリ推移する」、または「圧力容器内の放射性物質が大気中に全部ぶちまけられて、関東以北は人が住んでいられない状態になる」のいずれかの経過をたどると考えた。

 当時同居していた13歳と12歳の猫たちは、高齢で複数の持病を抱えていた。郷里の福岡県への一時避難の誘いもあったのだが、猫は環境の変化に弱い。また、病気の治療がスムーズに継続できるかどうかも懸念された。結局は、「いざとなったら猫たちを抱きしめて一緒に死ぬ」と腹をくくりつつ、その「いざ」が来ない可能性に賭けた。

 当時の筆者のもとには、毎日のように茨城県や千葉県などに住んでいる母親たちからの「放射能、子どもたちは大丈夫でしょうか」という相談があった。2011年3月11日から3月20日頃にかけての10日間は、福島第一原発を含めて、事態は極めて流動的だった。