P・F・ドラッカークレアモント大学大学院教授、出井伸之・ソニー会長兼CEO
「マネジメントの発明者」と称えられる経営学者のP・F・ドラッカー(1909年11月19日~2005年11月11日)教授と、ソニーの会長兼CEO(最高経営責任者)の出井伸之(1937年11月22日~)。「週刊ダイヤモンド」2001年3月3日号でその2人が対談している。カリフォルニア州クレアモントに住むドラッカーの元を出井が訪ね、対談は3時間に及んだという。長い記事なので、前後編に分けてお届けする。

 2人が語り合ったのは「勝ち残る経営者の条件」について。95年の社長就任後、「デジタル・ドリーム・キッズ」「リ・ジェネレーション(第2創業)」といったスローガンを掲げてインターネット時代の新生ソニーを率いた出井は、時代の寵児だった。出井の社長就任時、ソニーの株価は約4200円だったが、2000年には1万6590円という史上最高値(2000年3月実施の株式分割を考慮)を付けた。まさに絶頂期である。

 出井の「今まで多くの経営者の方々と会っていて、優れた経営者に共通点はあるか」という質問に、ドラッカーは、「共通点を挙げれば、第一に自分を仕事に追い込むこと。第二に、組織の目標に優先順位を付け、徹底してそれを守ること。第三に、組織にビジョンを伝えることだ」と答えている。

 それに対し、出井は「経営者には二通りの種類があると思う。一つは、自分のカネで事業を起こした創業経営者、もう一つは、それを維持発展させるプロフェッショナル経営者だ。(中略)過去を自己否定しないと経営者としての責務を全うできない。いつまでも盛田(昭夫:ソニー創業者)さんを偉いと褒めて、トランジスタを作り続けることはできない」と返している。「第2創業」を掲げる出井らしいコメントだ。出井がドラッカーに教えを請うというより、積極的に経営者論を開陳する内容になっているのが興味深い。

 ところで、対談当時は「ドットコムバブル」の末期。米国では99年から2000年までの2年間、IT関連の株価が異常に上昇していたが、この対談から間もなく、バブルは弾けて株価は急落。さらに01年9月11日の同時多発テロを経て米国の景気後退が決定的になった。

 一方ソニーは、記事から2年後の03年4月24日、02年度の第4四半期決算での営業赤字と02年度通期業績の下方修正、さらに03年度の業績も大幅に予想を下回ることを発表する。すると、投資家は一斉に“ソニー売り”を始め、株価は暴落。ソニー以外の電機株、ハイテク株に限らず、市場は売り一色となった。いわゆる「ソニーショック」である。それはソニー創業以来の成長伝説の崩壊でもあった。(文中敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

知識社会における
マネジメントの特徴とは

週刊ダイヤモンド2001年3月3日号
2001年3月3日号より

ドラッカー 盛田昭夫(ソニー創業者)さんが初めてニューヨークにいる私を訪ねてきたのは1954年、彼がまだ30代半ばの頃だ。

 そのとき私にソニーについてのビジョンを語ってくれた。トランジスタの可能性、日本社会がコミュニケーションを求めていること、グローバルな資金調達などだ。しかし、正直に言って、「ずいぶんと野心的なことを言うなあ」くらいにしか思っていなかった。

出井 彼はトランジスタラジオという小さなビジネスから出発したのですが、まだ町工場ほどの規模のときに、社名を東京通信工業からソニーへと変えた。勇気ある行動だった。