ときに、他人を憎むことや恨むことに生きがいを見出しているような人がいる。しかし、そういう人の心の底にも他人とのあたたかい心の交流を求める気持ちが渦巻いていることが多い。ゆえに、これもまた反響への欲求の一変形とみられる。

◇自由への欲求

 人間には根強い自由への欲求がある。自由とは何かと問うと難しいが、自由な感じとは「高い木の上にとまっている小鳥のように、自分からどこへでも飛んで行けるような、その主体性、自律性の感情」であろう。この自由な感じこそ、生きがい感を感じるためになくてはならない空気のようなものである。

 共産主義や軍国主義など、日常生活を厳しく規制されている国の青年ほど、自由への憧れを強くする。しかし、人の自由を縛るものは外側のものばかりではない。人間の心の中にある執着、衝動、感情などは、それ以上に強く人を縛りつける。対人関係も、愛情や恩や義理などの力で人を精神的な奴隷にする。人が自由を得るためには、さまざまな制約に抵抗しなければならず、それが大変で「自由から逃走」することにもなる。

 自由に尻込みする心の底にあるものは安定への欲求だろう。これは自由への欲求の対極にあるものだが、これもまた人が持つ基本的な欲求である。自由には危険と冒険、そして責任が伴う。だから鎖を外そうと出しかけた手も、また引っ込めてしまうことになる。人間には自由への欲求と同時に不自由への欲求もあるのだ。

 しかし本当に選ばないで済むかといえば、そうではない。人生の岐路に立った時、他人や成行きに進路決定を委ねるなら、そういう方針を選んだことになる。「宿命的」な状況を受け入れることは単なる宿命でも諦めでもなく、一つの選択なのである。

◆生きがいを奪い去るもの
◇生・病・老・死

 私たちの生きがいは損なわれやすく、奪い去られやすい。生、病、老、死。仏陀太子を求道へ追いやった人生の四苦は、現代もなお事実として私たちの前に横たわる。

 明るい日常生活にいる時は、人はこれらから目を背け、いろいろなことで気を紛らわせている。身近な人が死病にかかったり、死んだりしない限り軽くやり過ごしてしまう。そうでなければ、人間の精神は耐えられないのであろう。