70年にわたる重光経営の流通ストラテジー

 ほぼ70年間、重光はロッテ経営の陣頭指揮を執ってきた。ここではその期間を4つのフェイズに分け、重光経営のストラテジー(競争戦略)と、マーケティングで積み上げた流通対策についても織り交ぜて考えてみよう。

 第1のフェイズは、1946〜61(昭和21〜36)年が該当する。荻窪で「ひかり特殊化学研究所」の看板を掲げて油脂製品を製造し、ヤミ市で事業資金を蓄積し、チューインガム製造に参入したのが始まりである。

 当時のチューインガムは食玩(玩具の形をしたお菓子)扱いで、企業成長はすぐ頭打ちになる。単価の高い大人向けの板ガムへの進出がこの事態を打破するカギとなる。板ガム作りで当時のガリバー企業であるハリスに打ち勝つためには、米リグレーと同じ天然チクルを原材料に使用するという目標を重光が明確にし、それに向けて機会をとらえることがこの頃のストラテジーの要となった。

 この打開策が、誰もが不可能だと考えていたお菓子の小売店の把握である。51(昭和26)年に組織した自転車直売部隊の成功体験を全国に拡げ、「お得意様カード」を作成してしらみ潰しに当たる国勢調査のような動きを本格的に始めた。顧客との接点である小売店から直接情報を収集するという「人力POS」的なマーケティングは斬新なものだった。これに加えてロッテの「くノ一部隊」といわれたアルバイトの主婦を中心に組織したLHP(ロッテ・ホーム・プロパー)が取り組んだ「常全多前」という戦術がある。自社製品が「常時、全種、多量に、しかも前方に陳列されている」という小売りの現場をかたち作っていく、まさに人海戦術である。

 また、大手の問屋に相手にされない状況を打破するため特約店による「ロッテ会」を55(昭和30)年から組織し始めるとともに、ロッテ本体の販売部門をロッテ商事として分社化し、さらに有力問屋の大阪屋も買収するなど、小売りと卸の対策を両建てで進めていった。こうした流通対策を積み重ねて、前述した「1000万円懸賞」でガム業界トップの座を手に入れ、第1フェイズは終わる。

 第2のフェイズは、62〜79(昭和37〜54)年が該当する。この時期は高度成長の頂点から2度のオイルショックを経て安定成長に向かう経済情勢の中で、ロッテは2つの成長戦略を並行させることになる。一つは総合菓子メーカー化であり、もう一つは韓国への投資である。

 前者はまず、チョコレート、キャンディ、アイスクリーム、ビスケットへの参入である。いずれも優秀な外国人技術者と最新の生産設備の投入という“勝利の方程式”によって、短期間に市場で一定の地歩を築くことができた。ここでも流通対策は進化している。前述したLHPに加えて、70年代前半には新規小売店開拓のための組織MFP(マーケティング・フィールド・プロモーター)も立ち上げて、アイスクリームの売り場の確保と占有率の向上なども仕掛けていく。経済成長で豊かになる日本市場においては、高級化を兼ねた多角化が最強のストラテジーだった。

 65(昭和40)年の日韓国交正常化後、重光は韓国投資を加速していく。石油化学や製鉄という重工業分野への進出は韓国政府に反故にされて、結局、菓子類での参入から始まることになった。ここでは「タイムマシーン経営」が威力を発揮する。そしてこれこそが、重光の競争優位戦略だった。あまたの強豪を相手に日本市場を制した戦略性とその実践は、韓国企業が日本企業の模倣の上に築こうとする戦略とはレベルも意味も異なる。この点で、オリジナルである重光の競争戦略は、韓国において圧倒的な優位性を保つことができた。また、当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の意向で高級ホテル事業に参入したことで、巨大コンツェルンとなる足がかりも得ることになった。

 第3のフェイズは、80〜97(昭和55〜平成9)年が該当する。日本では80年代前半に製菓業界トップの座を獲得している。しかし、韓国のように多角化はあまり進まず、ロッテグループの日韓の企業規模が逆転していく時期に当たる。日本での流通対策もガムの消費減を契機に製品数を絞る縮小均衡策へと進み、主力製品は83(昭和58)年には34品種にまで絞った。

 かたや韓国では、石油化学分野へ進出し、ソウル五輪大会に向けてロッテワールドを展開する飛躍期を迎えた。つまり、より高い投資効果の期待できる韓国へ経営資源を集中するという、選択と集中という名の下での、韓国シフトのストラテジーが一気に加速する時代でもあった。

 そして、98(平成10)年から現在に続く4フェイズである。日本のロッテは製菓業界の中で安定した地位は築いたものの、今も多角的な展開はできずにいる。一方で、韓国では97(平成9)年のいわゆるIMF危機で、上位財閥が次々と潰れ、ロッテはついに第5位の財閥に浮上した。

 97年の時点で重光は数え年で76歳。後期高齢者の定義が75歳以上であることを考えれば、この年齢になっても経営の陣頭指揮を執り続けた重光はまさに驚愕的なカリスマ経営者といえよう。日本のロッテがロッテホールディングスと改称し、持ち株会社に移行するのは10年後の2007(平成19)年、重光が社長を退いて会長となるのはさらにその2年後である。ちなみに重光が享年98で大往生を迎えるのは2020(令和2)年である。会長に退いた後に韓国での脱税事件や、後継問題などが次々と起きたがゆえに、「長すぎた晩年」と言われることになってしまったのは否定し得ない事実だ。この時期のストラテジーは、良く言えば“収穫期”、悪く言えば、カリスマ経営が霞んで見えなくなるカオスの時代とでも呼ぶべきだろうか。カリスマ経営者の、第3のフェイズまでの華々しいストラテジーを見せられた後では物足りなさと哀愁を感じずにはいられないだろう。