私は、「華がない」自分自身を変えたくて変えたくて、仕方がない

「華がある人間」と、「華がない人間」。

 それ以来、私はずっと「華」を求めて、それを手に入れるための方法を考えて、日々を過ごしていたような気がする。

 中二くらいから、つけまつげをつけて、目の周りを真っ黒にして、スカートをギリギリまで短くして、学校帰りに渋谷のセンター街で遊んだ。

「ナンパされるタイプの友人」との歴然とした差を実感するようになったのはこの頃だ。

 それから徐々に、結局ギャルになったところで何も変わらないんだと諦めるようになって、それで自分を変えたくて、必死になって大学受験をした。念願叶って早稲田に合格できて、ようやっとこのコンプレックスとの戦いが終わると思ったのに、いざ留学して就活して、自由なフィールドで動かなきゃいけなくなって、そこではじめて、自分が、ただ「華がほしい」からあれこれもがいていただけで、本当に自分のやりたいことが何なのか真剣に考えたこともなかったんだと、気がついた。

 そして、今も。

 今もまだ、私は、「華がない」自分自身を変えたくて変えたくて、仕方がない。

 自分に華があるかないか、そんなことで悩むなんてくだらない、だいたい本当に華がある人間はそんなことで悩んだりしない。そう何度自分に言い聞かせてきただろう。でもいくら論理的に自分を説得しようとしても無理なのだ。華がほしい。華がない人間であることが、嫌だ。

 だって、華がないということは、ひどく、寂しいことだからだ。

 たとえば私は、友達と歩いていて、気がつくといつも一人だけ列の後ろを歩いているということが、よくある。

 四人で歩いていて、はじめは私が真ん中なのだけれど、気がつくと、両隣の三人の話が盛り上がって、私は後ろに追い出されるのだ。そして、私がその会話に参加していないことに、誰も気がつかない。そのまま会話は続く。

 私がいなくても、誰も困らない。

 困らないどころか、誰も、気がつかない。

 試しに、そのまま列から抜けて、ぼんやり立ち止まってみたことがあった。

 歩き続ける。

 みんな、前を歩き続ける。

 四人が、三人になったのに、誰もそのことに気がつかずに、一人分の声がなくなったことに誰も気がつかずに、ずっと前を歩いている。

 そして、十メートルくらい歩いてからようやく、そのグループの中の「華のある」一人が気がついて、私のほうを振り向いて、こう言う。

「あれ、紗生、何してんの?」

 その子が言ってようやく全員が、私がいなかったことに気がつく。「もー、紗生は足遅いんだから」とかなんとか言って、そして、「置いてくよ」と言って、歩き出す。私を待たずに。

 私がこういうときに、言うセリフは、決まっている。

「ごめん、目になんかゴミ入って、痛い」

 そして、追いかける。みんなのことを。置いていかないで、と本気で思う。

 そういう人生なのだ、ずっと。

 それくらいで大袈裟な、という人もいるだろうか。いるかもしれない。事実、私の被害妄想が激しいだけなのかもしれない。

 でも、私はこういう経験が何度もあるのだ。今までに。

 そういう人間なんだ。

 それはもう、認めるしかない、揺るぎない、事実だ。

 世の中には、「華のある人間」と「華のない人間」、二種類の人間が存在する。

 そして残念ながら、それはおそらく、努力でどうにかなるものではない。生まれつき決まってしまっていることで、あとから変えられるものじゃない。限られた人間しか、それを持つことは許されないのだ。私がこれからいくら努力しても、たぶん永遠に華を手に入れることはできない。

 昔から、そうだった。

 どれだけ頑張っても、周りに人が集まるのは、アリス役の私じゃなくて、かわいい妖精の役をやっていたSちゃんだった。

 あの子がいるとその場が和む。

 あの子がいると明るくなる。

 あの子がいないとなんかつまんないよね……。

 そういう存在になりたかった。

 そう言われる存在になりたかった。

 いつも必要とされる存在になりたかった。

 主役の座なんかいらない。「えらいね」なんて褒め言葉も。真面目な子、というイメージも、「いい子」だというレッテルも。そんなもの、何もいらない。

 何もいらないから、ただ、私は、友達がほしかった。

 自分の周りに、人が集まる。輪ができる。仲間に入れてほしかったし、自分が輪の中心にいたかった。あのSちゃんの場所からはどんな景色が見えるんだろう。それを一度、体験してみたかった。それだけだったのだ。