ロシア軍はグロズヌイを猛爆撃して突入、チェチェン人20万人を殺す徹底的弾圧をして独立派をほぼ絶滅させたが、その後も反ロシアのテロ行為が続発した。

チェチェンで辣腕振るったプーチン氏
独立派へ容赦ない武力行使や弾圧

 この第2次チェチェン紛争により出世したのが、プーチン氏だ。

 エリツィン政権の連邦保安庁長官、安全保障会議事務局長を務めていたが、KGB出身の経験を生かして、チェチェンの独立派の中に情報員を潜入させ、分裂を図るなどの謀略や情報収集に辣腕を振るった。

 さらに容赦ない爆撃、地上戦などの武力行使と弾圧を指導し、チェチェン人20万人が殺され独立派をほぼ絶滅させたといわれた。当時のエリツィン大統領はプーチン氏の能力を高く評価し98年8月に首相に指名、「私の後任はプーチンだ」と公言していた。翌年にはその通り大統領に選ばれた。

 第1次、第2次のチェチェン紛争では計30万人、チェチェン共和国の人口120万人の4分の1が死亡したとされる。だが親露政権ができた後も、苛烈極まる弾圧、殺害に対し報復を狙うチェチェン人は、ロシア本土などでのテロ活動に向かった。

 モスクワの劇場(死者129人)や北オセチアの陸軍病院(同50人)、ロシア南部エセントゥキ駅(同46人)、モスクワの地下鉄(同39人)、イングーシ共和国庁舎(同92人)、旅客機2機内で同時自爆(約90人)、北オセチアのベスランの中学校(同331人以上)などなど、多数の死傷者が出る爆弾テロが続発した。テロ活動の脅威は今も消えていない。

 プーチン氏にとっては、チェチェン紛争で反徒を制圧した功績で、46歳で首相となり、翌2000年に大統領となったのだから、チェチェンでの軍事力行使は輝かしい成功体験ということなのだろう。

 その報復で数百人が死ぬようなテロ事件が続発しても、1つの共和国の分離独立を防いだことに比べれば小さい余震のように彼は考えているかもしれない。

 プーチン大統領は、ウクライナに対しても、18世紀末の女帝エカテリーナ2世の時代にロシア領になったその歴史から、チェチェンと同様に属領視していたのだろう。

 そのウクライナがロシアに逆らってNATOに加盟を申し込み、米国やドイツなどの軍を駐留させようとするのはけしからんとの感情から、チェチェン紛争で成功した時のように強硬策に打って出たのかもしれない。

首都制圧し親露政権作っても統治は困難
抵抗運動やゲリラ活動抑えられない

 だがチェチェンはロシア国内の共和国で面積は日本の四国程度、人口は約120万人だったのに対し、ウクライナは、面積が日本の1.6倍、人口4300万人余りで、1991年から完全に独立しているから状況が異なる。

 ウクライナ軍の総兵力は20万9000人で、陸軍が14万5000人、空挺隊8000人、海兵隊2000人を加えると、地上戦兵力は15万5000人だから、ロシアが今回の演習に動員した兵力15万人に等しい。