ロシア軍のキエフ突入が遅滞しているもう一つの理由として、人口300万人に近い大都市に入り、市街戦になれば、双方の軍と民間人に万単位の死者が出て、街は瓦礫の山となり、その後の統治に困難を来すという計算があることも考えられる。
ロシアがゼレンスキー政権を打倒して親露政権を擁立しても数万の市民を爆撃と市街戦で殺せばそれだけ恨みが残り、残骸の上に作った新政府はウクライナ国民の憎悪の的となるのは必定だ。
突入を控えて首都を包囲し、兵糧攻めにして降伏させ、無血入城ができれば、その方がロシアにとっては得策だろう。
過去にも強硬策に出て泥沼に
アフガニスタンやチェチェン紛争
ロシア軍にも十分なトラックと補給品の備蓄はある。補給が間に合わない状況は一時的な問題で、やがて解決するだろう。現実的に考えキエフが降伏するか戦闘で制圧される可能性は高い。
だがロシアにとっての問題は、首都を陥落させても戦争が終わるとは限らないことだ。
どこの国でも首都は交通や通信、政治・行政、経済の要衝だから、戦争で相手の首都を占領することは無意味ではないが、国民が抗戦の意思を持ち続ける限り決定的な勝利ではない。
ナポレオンは1812年にモスクワを占領したが敗退したし、日本軍は1937年11月に蒋介石が率いる中華民国の首都南京を陥落させた。日本では戦勝パレードが行われたが、蒋介石は重慶に移って抗戦、日本は8年後に敗退した。
ロシア自身も苦汁を飲んできた。
旧ソ連時代の79年には、アフガニスタンでイスラムゲリラの支配地が拡大、社会主義政権が倒れそうになった。
ロシアは自国南部のイスラム教徒地域に伝播することを恐れて、アフガニスタンに出兵、首都カブールを押さえて頑固な政権を交代させ、イスラム教徒に寛容な姿勢を示して懐柔しようとした。
だがこれは逆効果となり、ソ連軍の進駐に民族主義的なイスラムゲリラは一層反発、激しい戦闘になった。
ソ連軍は11万人を派遣したが苦戦し、10年後の89年に撤退を余儀なくされた。
この敗北でソ連は軍事的な威信を喪失し、東欧諸国が離反、ついには91年に解体に至った。
ソ連崩壊後、ロシアは2次にわたるチェンチェン紛争で苦しんだ。
ロシア連邦に属していた北コーカサスのチェチェン共和国では90年に独立運動が起きた。
ロシアは独立派を鎮定しようと4万人の軍を送ったが、撃退される事態となった。
ロシア軍は翌年首都グロズヌイを制圧し96年には和平合意が成立し、97年にはロシア軍は撤退した。だがチェンチェン側は99年に完全独立を求めて再び蜂起、第2次チェチェン紛争となった。