どちらが先なのかわからない、鶏と卵のような話でもあるが、学生が偏差値的学力やコミュ力を磨くことが一般的になれば、専門スキルを重視すべき業界でも、偏差値的学力とコミュ力を企業は重視するようになる。事実、日本企業が新卒採用時に最も重視するのは専門的なスキルや知識(機能的技能)ではなく、問題処理能力、コミュニケーション能力や主体性(文脈的技能、可塑的技能)であり、日本の石油化学産業にもそうした能力が高い人材が送り込まれることになった。

 さらに本書では、このような雇用システムに加え、他のシステム(メインバンクによるガバナンスと内部者による会社の支配など)が補完的に機能し合い、日本型の経済システムが構築され機能してきたと説明されている。個々のシステムが相互拘束し合い、一連の強固なシステムとして機能し始めると、多少一部でルールや制度が変わろうと、経済システムや組織運営方法の基本型は変化することなく継続する。

 メインバンクや系列企業同士で株を持ち合って、お互いにがっちり縛り合い、どこかの制度を少しいじって表面的に成果給を入れてみたり、「株主による経営者の監視(コーポレートガバナンス)をこれからはしっかりしてください」と規則を厳しくしたりする程度の変革では、びくともしない日本型経済システムの体系が作り上げられたということなのである。

偏差値的学力向上と「コミュ力」磨きが
成功への近道だった日本の学生

 このようなことから、多くの外圧、内圧に晒され、部分的な手直しが多発しながらも、日本的経済システムの基底はこれまでなかなか変わらなかった。最も重要なことは、すり合わせを中心とする水平型の組織運営こそが競争力の源泉である産業がビジネス界の中核にあり、そのため経済主体(個人)は可塑的技能に投資することが合理的であり、またそれが当たり前であると信じて疑わない人が、組織運営の中核を担ってきた。
 
 カンバン方式、ジャストインタイムなどの自動車産業のように、水平的に緊密に連携し合うチームワークの組織こそが、ものづくりの素晴らしい組織だと神格化され、そういう社会で育った学生たちも、専門スキルよりは偏差値的学力向上と「コミュ力」を磨くことに力を入れることが、人生での「成功」の近道であり、それが当たり前だ思う人たちが、日本経済の中心にいたということである。

 しかしながら、このように強固であった日本型の経済システムも、とうとう分水嶺をこえて、まだ姿の見えない新たなシステムに向けて、流動する時代に突入してしまったのではないかと思われるのである。

 すでに、これまでも日本の大企業(上場企業)は、メインバンクによるモニタリングから、株主によるガバナンスの方向へと舵が切られ続けてきたし、その方向性はますます強まっている。メインバンクによるガバナンスのシステムは、企業が不振になり銀行の債権が脅かされない限りは、利益創出にそれほどこだわらない。

 銀行さえ損をしなければ、企業の運営がどうなろうと知ったことではないのであるが、一方、株主ガバナンスは常に企業価値の向上を求める。時代の変化に合わず、価値を創出できない組織運営は許容されない。株主が求めるような利益を上げられない会社は、株主からノーと言われる。