“長文はやぼったい”に隠された
誹謗中傷生成のメカニズム

「子どもに高価なものは適切派」と「適切でない派」の両者の具体的な主張は前述の通りであって、どの主張もなんとなく正しいように思える。こうした類の議論は、どうあがいても主観や個人的体験を戦わせている域を脱しないので、なかなか白黒がつくものではない。個々人はおおむね直感的に、己にフィットする自論を手にしていて、他者にはそれを積極的に否定する材料をあまり持っていないのである。

 それだけ多様性のある議論にもかかわらず、発端となったツイートをした父親には誹謗中傷が殺到した。ご本人の考え方の深掘りは、インタビュー形式で書かれたこちらの記事(『GUCCIの財布「高校1年生にはまだ早い」論争、娘のおねだりを断り“炎上”した父親の思い』週刊女性PRIME3月10日)に詳しいが、それによると、「こんなゴミでも結婚できるんだ」「5~6万の財布を買えないのに子どもを産むな」といった批判があったらしい。どうしてここまで偏っていて、さらには人を否定して傷つけるような言葉を他人に投げかけることができるのか、気分が悪くなる。

 しかし、その背景をよくよく追ってみると、そこに誹謗中傷が生まれうる仕組みが潜んでいることに、今更ながら気づいた。

 まず、ツイートした父親はフォロワー1万人を超すプチインフルエンサーだった。で、日頃からまめに意見を発信しているが、これがそうしたアカウントによく見られるように、ズバッズバッといった様子で行われる。短い言葉で端的に真理を指摘するような、Twitter独特のテンションの文体であり、他を切り捨て、時に否定したりするので、敵を作りやすいともいえる。

「GUCCIの財布」はそうしたツイートの中のひとつであり、これがピックアップされて注目を浴び、バズったわけだ。

 Twitterには全角140文字という字数制限があるので、主張がある場合は極端に短い言葉で行われる。そこには余白を斟酌(しんしゃく)する懐の広さはなく、世の中を切る刃の鋭さがあるのみである。ツイートの連投や、ブログやテキスト画像などを貼り付けて使えば長文の主張も可能ではあるが、これはツイート主が「長文の主張をします」と構えるようなよくよくのケースであって、通常は140字に収まる短文で行われる。Twitterにおいて、長文はやぼったいと思われる向きがある。

 そうした短文による主張は、真理をズバリと言い当てているようで、その実は抽象的で解釈の余地が無数に存在する、かなり不親切な文章である。誤読の可能性が無数にある中からツイート主が主張するところの意味を正確に読み取れなければ、読み手の知性が足りていませんよね――というほどの雰囲気すらある。

 これら全体の様子からツイート主が、他人からすると「悦に入っている」「他の意見を全否定している」「傲慢(ごうまん)そう」などと見えることがあるのである。

 そしてそれは、受け手の個人的主張によっては相いれないものとなり、受け手に不快感を与える。そこで、なんとかしてツイート主に反論してやろうなどと、あらぬ言葉による誹謗中傷がなされる。誹謗中傷も短文で行われるから、「もっともとがっていて効果的な言葉を」と、言葉選びはなお極端になる。

 こうしたユーザー間の心の動きが、字数制限140字のTwitterには生じやすい。いわばTwitterの仕組みに内包された、誹謗中傷生成のメカニズムである。

 心ない言葉による誹謗中傷は断じて許されるべきではないが、ツイート主の傾向によっては敵を作りやすく、批判を集めやすいことがある――ということである。

 ゆえにTwitterは、議論が深まりにくい場である。自身の考えと同様の、あるいはさらに深めてくれる主張を発見してカタルシスを覚えることには適しているが、それ以外の意見とは、はなから折り合う機会が持ちにくい。

 筆者は今更ながらこのTwitterに秘められた仕組みに気づいて、妙に得心した気持ちになった。実はTwitterからは距離を置いているのだが、得も言われぬこの気持ち悪さを初めて「気持ち悪いものである」と自覚し、少し救われた気分になった、というのが個人的に新鮮に感じられた体験であった。

 Twitterを今後も使うつもりであるなら、どの意見もほどほどに見るのが、こちら側の不快感を軽減できそうである。

 ネットリテラシーがさらに進んで、ネットから被る不快感が少しでも減ることを願いたい。