そんな芸能と性をなりわいとする遊女たちを集めた場所が遊廓であり、吉原遊廓は1617年に成立した。後に、遊女から踊りや芝居といった芸能部分と性が切り離されたが、これによって今日の男性だけの歌舞伎や能が生まれたわけだ。

「遊廓には『色好みの文化』がありました。平安時代以来、和歌や琴などの風流を好む人は色好みと呼ばれていました。遊女たちは豪商や大名、高位な武士と、このような教養の共有が求められたので、彼女たち自身が色好みの体現者となるべく、和歌や俳諧、琴など高い教養を身につけていたのです。また、おもてなしの文化として、遊女は茶の湯もたしなみ、一方で着物や帯、くしかんざしも遊廓内で独自の展開を見せていくのです。このような教養や文化を武家だけでなく、客である町人たちも遊廓を通して共有することで、庶民にも広く伝わるきっかけにもなりました。また、文化を語り合うサロンという機能を持った遊廓からは作家や画家なども育っていきました」

 遊廓から育った文化の一つには浮世絵があり、田中氏も「浮世絵の発展は遊廓なしには存在しなかった」というほど。美人画の名手として知られる浮世絵師の喜多川歌麿は吉原を拠点に活動し、遊廓の一日を描いた「青楼十二時」をはじめ、遊女たちを題材にした作品を数多く残した。このような「歌麿の技術や世界観が葛飾北斎や歌川広重に受け継がれていった」(田中氏)のである。

遊女を縛り付けた
前借金制度

 平安以降からの日本文化が集積し、民衆にも広がっていったのは、遊女たちの日々の訓練のたまものだが、彼女らがそこで働いていた理由も遊廓を語る上では欠かせない。

「遊女を遊廓に引き留めておいた仕掛けが『前借金』。遊女の多くは、家族が抱え主(妓楼の経営者)から借金をしたため、その返済を理由に客を取っていたのです。人身売買ではないため、奴隷ではありませんが、『借金のかた』『抵当』として自由が奪われていたことは明らかで、人権侵害に当たります。遊廓は文化的な側面を見れば重要な場所でしたが、このようなことを鑑みると二度とこの世に出現するべきではない場所なのです」