最近ではアニメ「鬼滅の刃」で遊廓を舞台にするシーズンに対し、「子どもに見せたくない」「説明できない」という親の意見も少なからずあったという。しかし、どんな歴史であれ、学び、語り継ぐのが大人の役目。そこで、江戸文化研究者であり『遊廓と日本人』(講談社現代新書)を上梓した田中優子法政大学名誉教授・前総長に、遊廓の歴史や語り継ぎ方を聞いた。(清談社 沼澤典史)

遊廓を抜きにして
江戸文化は語れない

田中優子法政大学名誉教授・前総長田中優子法政大学名誉教授・前総長

 遊廓といえば、豪華な建物や花魁(おいらん)姿がきらびやかではあるが、単なる売春の場所とイメージする人も多いだろう。しかし、田中氏は売春の場だけではない遊廓の姿を述べる。

「日本の遊廓は1585年から1958年まで安土桃山、江戸、明治、大正、昭和と373年にわたって続きました。全国に25カ所以上あった遊廓の中でも、代表的なのは東京・吉原遊廓です。吉原を中心として、遊廓は文化の基盤となり、江戸文化は遊廓なしでは語れないほどです。多くの人が抱くような『単なる娼婦が集まる場所』というイメージは誤解であり、和歌、俳諧、三味線、唄、茶の湯など、遊廓は日本文化の集積地だったのです」

 遊廓で働く遊女の、そもそものルーツは芸能者。遊廓よりも、彼女たちの存在は古く、平安時代の遊女は舟で移動しながら楽器を奏で、唄を唄い、夜は枕を並べていたという。