コロナ禍で働き方や生き方を見直す人が増えている。企業も戦略の変更やアップデートが求められる中、コロナ前に発売され「アフターコロナ」の価値転換を予言した本として話題になっているのが、山口周氏の『ニュータイプの時代――新時代を生き抜く24の思考・行動様式』だ。
本書を読んだ人から「モヤモヤが晴れた!」「今何が起きているかよくわかった!」「生きる指針になった!」という声が続々集まり、私たちがこの先進むべき方向を指し示す「希望の書」として再び注目を集めている。
そこで本記事では、本書より一部を抜粋・再構成し、生きづらさに悩んでも自分を見失わず、したたかに生きる方法のヒントをご紹介する。

【山口周・特別講義】<br />「こんなはずじゃなかった…」そんな人が自分を見失わず、したたかに生きる方法Photo: Adobe Stock

演じる役柄と自分を区別できない

 20世紀前半に活躍したドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは「世界劇場」という概念を通じて、現存在=我々の本質と、我々が社会において果たしている役柄は異なっていると考えました。

山口周山口 周(やまぐち・しゅう)
独立研究者、著作家、パブリックスピーカー 電通、BCGなどで戦略策定、文化政策、組織開発等に従事。著書に『ニュータイプの時代』『ビジネスの未来』『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』など。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修士課程修了。株式会社中川政七商店社外取締役、株式会社モバイルファクトリー社外取締役。

 舞台で演じる役柄のことを心理学ではペルソナといいます。ペルソナというのはもともと仮面というラテン語です。実際の自分とは異なる仮面を身につけて、与えられた役柄を演じる。英語では人のこと「person」、人格のことを「personality」といいますが、この言葉はもともとペルソナからきています。

 そして、すべての人は世界劇場において役割を演ずるために世界という舞台に放り出されています。これをハイデガーは「企投」と呼びました。そして企投された人々が、世界劇場における役柄に埋没していくことを耽落=Verfallenと名付けました。

 ここで問題になってくるのは「現存在と役柄の区別」です。多くの人は、世界劇場で役柄を演じている耽落した自分と、本来の自分を区別することができません。カッコいい役柄をもらっている人は、役柄ではなく自らの現存在を「カッコいい」と考え、ショボい端役をもらっている人は、役柄ではなく自らの現存在を「ショボい」と考えてしまいます。

 そして、当たり前のことながら主役級の役柄をもらっている人はごく少数に過ぎません。多くの人はショボい端役を与えられた大根役者として世界劇場の舞台に立つことになり、役柄を演じるのにオロオロと四苦八苦しています。

 一方で、役になり切って高らかに歌い踊る主役級の人々に嫉妬と羨望の混ざりあった複雑な感情を抱くか、その真逆に「ああはなりたくないよね」といった態度を取ってしまったりするわけです。

 結局のところ、両者はルサンチマンに絡め取られて正常な思考ができなくなっているという点では同じであり、本質的に役に耽溺して自己満足しているオールドタイプと変わりません。

この世界の脚本をどう書き換えるか?

 さて先述した通り、この世界劇場で演じられている劇にはいろんな問題があります。この世界が健全で理想的な状況にあると思っている人は、世界に一人もいないでしょう。つまり世界劇場ということでいえば、この劇の脚本は全然ダメな脚本だということです。

 したがって、この世界劇場の脚本は書き換えられなければならないわけですが、ここで浮上してくるのが「誰がその脚本を書き換えるのか」という論点です。

 というのも脚本に口出しできる人は、そう多くはないからです。テレビドラマの制作を考えてみればわかりやすい。脚本の修正に口を出せるのは橋田壽賀子クラスの大物脚本家か監督、それに泉ピン子クラスの大物俳優だけでしょう。

 しかし、少し考えてみればすぐにわかることですが、まず、この社会で活躍している人、つまり花形役者には脚本を変更するインセンティブがありません。彼らは、いわば世界劇場における「脚本の歪み」ゆえにさまざまな利益を享受しているわけで、脚本の「歪み」を是正するインセンティブがないのです。

 これは監督や脚本家についても同様で、世界の脚本に口出しできる立場にある人はやはり同様にそれを改変するインセンティブを持ちません。

 一方で、今の世界劇場に完全には適応できていない人、端役を押し付けられた大根役者にはもちろん、脚本を改変するインセンティブがあるわけですが、多くの大根役者は「脚本の歪み」を是正することよりも、「どうやったら自分も花形役者になれるのか」という問題ばかりに気をとられて花形役者から搾取されるいいカモになっており、ますます脚本の歪みを強固にしてしまっています。

 結局のところ、この劇の脚本を書き換えるには、舞台の上で適切に振る舞うことでしたたかに発言力・影響力を高めながら、脚本そのものへの批判的な眼差しは失わないという二重性を持った人によるしかありません(*1)

 そして、そのような二重性を破綻なく持った人物こそが、システムの改変を担うニュータイプだということになります。

(*1)本然的に「善い」を志向するはずの人が集まってできた社会が、なぜかくも生きにくい世界になっているのか。近代以降の哲学者のほとんどがこの問題について考察し、何らかの提案を行った。私たちの多くが親しんでいる夏目漱石の『行人』には「生きづらさ」に煩悶する主人公の兄が「自分はこの先、自殺するか、発狂するか、宗教に入るかしかない」と激言するが、これはニーチェやキルケゴールやデュルケムやハイデガーが指摘したのと基本的に同じ結論である。しかし、筆者はぜひとも4番目のオプションとして「耽落せず、自殺もせずにしたたかに生きる」という道を提唱したい。

(本稿は、『ニュータイプの時代――新時代を生き抜く24の思考・行動様式』より一部を抜粋・再構成したものです)